北を飛び出したばかりのネロ。彷徨って西の国に入ったが、あまりに話しかけられるため俯いて歩いたら、突然手を握られて「お兄さん」と鈴が転がるような声で呼びかけられる。顔を上げるとそこにいるのは身なりの美しい女。一目でわかる。魔女だった。

「料理人でしょう。私にご飯を作ってくれない?」

 行くあてもないし、西の国の空気に疲れていたネロは、魔女に誘われるままついていく。街の中心を離れ、路地裏のさらに裏を通り、「ここよ」という声に顔をあげると、寂れたアパート。繁華街の騒めきはひどく遠い。2階の角の部屋を案内され、玄関を通ると、思わずネロは顔を顰めた。
 魔女の見た目からは想像がつかないほどに荒れた部屋だった。思わず魔女の顔を見て、今度は目を見開く。先ほどまでそこにいた美しい女はいなかった。艶のない髪は四方に飛んで、肌には斑点のようなシミが散らばっている。やつれた顔に不似合いな大きな黒縁の眼鏡。その奥で瞳だけが、爛々と異質に輝いていた。

「やっぱり、魔法使いの男を誘うなら、美しい女の姿が一番便利だね」

 そう言って魔女は、どこからか取り出したパイプから煙をくゆらせ、笑った。
 ネロは咄嗟に魔道具を出すが、魔女はからからと笑って「でもご飯を作ってもらいたいのは本当さ」と言った。そして、パイプを吹かせながら身の上を語り始める。狭い部屋に煙の匂いが充満した。

「あたしは予知が得意でね。北におわす双子様にはとても敵わないけど、数分先の未来が見えるのさ。その力を使って、カジノで荒稼ぎしていたの。大して広い部屋じゃないけど、その金でメイドを雇って家事を全部させてね。でも3日前から、カジノで未来が見えなくなった。たびたび姿を変えてたけど、バレちまったんだろうねえ。干渉の魔法か、魔法科学技術が使われてるとみたね。それで大負けに負けて、メイドには逃げられた。あたしは他人にやってもらう以外の生活の仕方を知らない。他のカジノを探すにも、腹が減っては何もやる気にならんものさ」

 そこまで淡々と語り終えて、最後に深く、煙を吐く。

「西の国には不慣れだろう、お兄さん。寝床はここを使って。あたしがまた金を稼げるようになる時まで、ご飯を作ってくれればそれでいいんだ。もちろん、その稼いだ金を君の働きに支払うからさ」

 そう言って薄く細められた彼女の緑の瞳は、貧相な身なりからは信じられないほど蠱惑的だった。
警戒は解けない。しかし、ネロが西の国に不慣れであり、そんな場所で宿も仕事もないのは事実だった。あんな陽気な街で、ここから探す気にもならない。ネロに頷く以外の選択肢はなかった。
 ひとまず、汚い部屋では何が出るかわからないので、片付けは魔女に任せることにした。しかし露骨に彼女は口を尖らせた

「掃除のやり方なんてわからないよ」
「あー……元あった場所に戻るように魔法をかければ? で、行き場のないやつだけ処分すれば」

 そう言うと魔女は目を丸くした。いかにも、その発想はなかった、という顔だった。誰かに頼る以外に生活の仕方を知らない、というのは本当のようだった。ネロが背を向け、キッチンの棚に手をかける後ろで、彼女の呪文らしき音の響きが紡がれる。途端、波が引くような音が部屋中を満たした。片付けはなんとかなりそうだった。ネロが棚を開けると、いくらかの野菜に加え、ソーセージが保管してあった。前までいたメイドが使おうとしていた名残りだろう。新鮮さは失われているので、なるべく早めに使い切りたい。使えそうな野菜を取り出して、水で洗い、根菜の皮を剥こうとしたところで。

「魔法は使わないの?」
「うわ」

 片付けをしていたはずの魔女が後ろから覗き込んでいた。片付けは、と聞くと、大体はね、と微笑む。前のメイドがしっかり場所を管理していて、物たちも迷わなかったのかもしれない。

「……俺は、料理には魔法を使わない主義なんで」
「へえ、面白いね」

 そう要点だけ答えた後も、魔女は去らずにずっと後ろからネロの手元を覗いている。その奇妙な空間にいたたまれなくなって、ネロが口を開いた。

「見てて楽しいか、こんなん……」
「楽しいと思ったのは初めてだけど、楽しいよ。魔法使いを雇ったんだから、魔法ですぐにできるものかと思ってたからさ」

 やけに手に傷が多いと思った、と機嫌良さそうに鼻を鳴らす。そして、いつも輝きを失わない瞳が、好奇心にきらりと光った。

「あたしにもできるかね、こういうの」

 その、どこか子どものようにさえ見える眼差しを、ネロは邪険にはできなかった。

「カジノで稼いでたんだろ。カードを捌ける手があれば、野菜だって切れるよ」
「良ければあたしに教えてよ。またいつこうなるかもわからないしさ」

 思わず、振り返る。ずれた黒縁の大きな眼鏡。その奥の目は、まるで初夏の新緑のように生命力に溢れていた。その晩に食卓に出したポトフと、ハーブを散らして焼いたソーセージは魔女の口にも合ったらしかった。
 翌日。昼を過ぎた頃に、知らない魔女がアパートから出ていった。彼女が語った通り、魔力干渉のないカジノを探しに行ったのだろう。ネロも市場へ食材を探しに出かけることにした。そして深夜にも近い時間に、魔女が帰ってくる。その魔女に料理の初歩的なポイントを教えてやる。そんな奇妙で平穏な日々が続いた。ネロは魔女に包丁他調理器具の使い方、簡単な野菜スープや肉料理の作り方を教えてやった。魔女は何度怪我をしてもそれを魔法で治し、諦めず、そして楽しく学んでいた。しかし、その日々は長くはなかった。
 ネロは西の国に不慣れなだけでなく、本質が合わなかった。陽気な人々と騒がしい街は、いつしか容赦なく心に踏み込んできそうで、ネロにとっては耐えがたかった。それに、他者と生活をして、これ以上踏み込んだり踏み込まれたりするのはごめんだった。魔女がいない間に、大鍋にスープを作って彼女の帰りを待った。そして魔女が帰るなり、頭を下げた。

「悪い。もうこの国にはいられそうにない。給金はいらないから、また旅に出ようと思う」

 驚くか怒るかするだろうと思っていた魔女は、意外にもからからと笑って言った。

「そろそろだと思ってたんだ」

 魔女が手のひらに息を吹きかけると、そこには小さな巾着が現れた。差し出されたそれを受け取ると、中から硬貨の音がする。促されて覗き込むと、数日分とは思えない大金が入っていた。ネロが思わず驚いて声を上げる。魔女は悪戯が成功した子のように笑った。

「もうとっくに金は稼いでいたけど、君に料理を教わるのが楽しくってね。ついつい勿体ぶってしまったよ」

 魔女は手渡した巾着の代わりにパイプを持ち、ふうと煙を吐き出した。

「君がこの国に合わないのはわかっていた。なのに引き止めていたのには謝ろう。お詫びに、ひとつ助言をさせてくれ。君は東の国に行くといい。あたしの生まれ故郷だ。あの真面目で静かな国で生きるのに、あたしは向いてなかったが」

 そこで初めて、ネロは知る。西の魔女であり、使用人を雇える財力がありながら、裏路地の寂れたアパートに住んでいた理由。たった数日とはいえ、ネロが共に過ごせた理由。
 彼女との距離感は、西の国らしくなかった。魔女はパイプを手の中で傾けて微笑んでいる。

「君には向いてると思う。魔法使いへの偏見は根強いが、悪い国ではないよ」

 その助言を受け取って、じゃあその礼に、と昼間に市場で買ったものを差し出した。突然出ていくことへのお詫びとして用意した、初心者向けの料理本。教えたことも半端だったし、という悔恨もあって買ったのだが、それを見た魔女は吹き出した。

「ほらやっぱり! 君は東向きだよ!」

 腹を抱えて笑う魔女に、ネロは顔を顰めながらも赤面した。
 次の日の朝、ネロはアパートを出て、そのまま西の国を出た。
 眠たげな魔女とは、世話になったね、と言い合うだけの、淡白な別れだった。

 ……は、っとネロは目を覚ます。
 随分と、懐かしい夢だった。身体を起こしてカーテンを開けると、まだ夜が明けたばかり。外でレノックスが走っている。
 身支度をしながら思い返す。西の国の息のしづらさ。珍しい食材や腕の良い料理店は多いが、任務や依頼でなければ自分から行くことはないだろう。賢者の魔法使いに選ばれなければ、それさえなかったのだが……と思ったところで、昨日のリケとのやりとりを思い出して口の中が苦くなる。
 リケとミチルが西の魔法使いと共に、西へ遊びに行くらしい。リケに誘われたが断ろうとしたところ、西の中でもクロエが不在らしいと聞いて咄嗟に頷いてしまった。我ながらまた損な役回りを引き受けてしまった。そう思いながらネロは朝食の支度と、バスケットの準備をすることにした。いつもより早起きのリケとミチルにオムレツ。カインにはカリカリのベーコンを渡すついでに手を触れ合わせた。

「おい飯屋、朝メシはフライドチキンか?」
「朝から揚げるかよ」

 クロエが西の3人を起こしてきて、朝食を済まさせた。

「俺も行きたかったな、お土産話聞かせてね!」
「はい! クロエさんはバザーに行かれるんですよね。お気を付けて!」

 ラスティカの身支度までしたクロエを見送り、全員が身支度を整えたところで、エレベーターから西の国へ向かった。
 リケとミチルを守りながら西の国を散策するのは大変だった。華やかなスイーツや紅茶を楽しみもしたが、隙あらば"刺激的"な遊びに誘おうとする西の魔法使いから、未知への恐怖と好奇心に戸惑うリケとミチルを何度も引き戻した。それにネロが疲れ始めた頃、ミチルが一点を指差した。

「見てください。占いカフェ、ですって!」

 表通りから路地裏に至る道の奥。古びた建物に、真新しい看板がかかっている。西の魔法使いも足を止めた。

「初めて見る店だ。最近できたのかもしれないね」
「そうでしょうね。どうやら、魔法使いの店のようです」
「初めてって楽しい! 行こう行こう!」

 躊躇も迷いもせずその店に向かっていく5人に取り残されそうになり、ネロは慌てて追いかけた。先頭をいったムルが小さな扉を開けると、女の声が聞こえてくる。

「いらっしゃい、魔法使いのお客さん。あたしは予知が得意でね。北におわす双子様にはとても敵わないけど、1年先の未来が見えるのさ」

 前に立つラスティカの頭に隠れ、店の中はまだ見えない。

「その分料理はここ100年ぽっちの付け焼き刃さ。そっちは期待しないで。もし物珍しけりゃ見て行くといい」

 からん。何かがテーブルにそっと置かれたような音がする。まるでパイプ。シャイロックのものにも似たそれが、店主の彼女の手元にある。
 小さな扉は一人ずつしか入れない。誰かが通るたびに、僅かに店の中が見えた。西の国らしくない質素な木目の内装。客の手遊び用の、カードやコイン、ダイス。そしてついに、目の前にいるラスティカが扉を潜る。

「あたしは、料理には魔法を使わない主義でね」

 いつか嗅いだ、煙の匂いがした。

(終)




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