私ね、――後悔しているの。
 そう告げた時、彼の若葉のような優しい瞳は悲しそうに揺らいだ。私の不躾な言葉に、怒るのでも驚くのでもなく、そうやって悲しんでくれるのだ。一方的な私が悪いなど、頭の片隅にさえないみたいに。
 そんな彼の優しさに触れるたび、私の後悔は膨らんでいく。
 まるで蕗の葉の上に落ちる、雨粒のように。


 *


 ルチル・フローレスは、私の恋人だったことがある。
 とはいっても、小説のように胸躍る駆け引きも、歌のように身を焦がす情熱も、詩のように互いの体温を分け合う別れもなかった。学友だったルチルに私が焦がれ、想いを伝えた時、彼にはそれほどの気持ちはなかったと思う。だけど悩んだ後に、「私にとってそれはまだ夢の中のものみたいだけど、いつか知りたいと思っているし、あなたのことは大切だから」と頷いてくれたのだ。
 それから恋仲になって、特別な日々が訪れた――なんてことも、やっぱりない。恋人になって何をするかもよくわかっていなかったし、何より、私達は平穏な日々を愛していた。振り返れば、恋人らしいことをしたのは一度だけだったように思う。星の綺麗な夜、ルチルがフィガロ先生の元へ泊まりに行っていた日。二人だけの秘密の約束。ルチルは弟をフィガロ先生に託して、私は自室の窓を開けて。深夜、ルチルの箒に乗ってティコ湖に連れて行ってもらった。

「父様と母様が出会った場所なんだ。恋人ができたら、一緒にここで星を見たくって」

 そう言ったルチルと共に、湖の歌を聴きながら星を眺めた。空と湖とルチルの髪に星の光が落ちて、宇宙の片隅に二人で逃げてきたみたいだった。私もルチルも家族を投げ出して逃げることはないから、それは途方もない例え話。だけど、あの時だけは夜が更けてほしくなかったし、この人なら本当に、私の手を取って宇宙まで連れていってくれるんじゃないかと思った。どこまでも遠くに、高く、速く飛んでいける、魔法使いの箒で。
 そのくせ、別れを告げたのも私からだった。
 他の人に揺らいだわけでも、気持ちが冷めてしまったわけでもない。誠実なルチルが他の人を追うこともない。きっかけはひとつ。私が今まで無知だったこと。
 魔法使いは約束をしない。約束を破れば、魔力を失ってしまうから。そして、結婚は約束となりうる。
 それを、今更になって知ってしまったのだ。

「ルチルのことは今でも大好き。ご両親が出会った場所に連れて行ってくれた時、とても嬉しかった。だから私は、どうしても未来を夢見てしまう」

 夕暮れを迎えた二人だけの花畑で、私は別れを口にしてそう言った。何が哀しいのか、それとも寂しいのかもわからないまま、涙が溢れて花を濡らしていく。花に落ちた涙に夕焼けが反射して、とても綺麗で嫌だった。

「だけど、約束をしない魔法使いみたいに、誠実で居続けられるかわからない。私には、ルチルの未来を背負う覚悟がない」

 ルチルに一生愛される自信もないし、もしそんな幸せな未来があったとしても、私が死んだ後にルチルが魔力を失う可能性があるのが嫌だ。そう思ってしまう私では、ルチルの隣にいられない。ルチルのお母様とお父様は、一体どんな決意で婚姻を結んだのだろう。
 服の裾を握る私の手に、ルチルの大きな手が触れた。冷えた私の手を、ルチルの優しい温度が包んでいく。抱きしめるような温もりなのに、その温度が与えられるのは手だけ。だって私たちの毎日は、不器用すぎるくらいに平穏だった。詩のように体温を分け合う別れなんて訪れない。

「気持ちを教えてくれて……私を大切に思ってくれて、ありがとう」

 いつの間にか私の手はほぐれて、ルチルの手に包み込まれている。穏やかな声に執着はない。引き留められることもなく、このまま終われるのだと確信して、私は顔を上げた。ぐしゃぐしゃの顔は綺麗じゃないけど、最後に俯いたままなのは、それこそ本当に誠実じゃないと思って。
 ルチルは微笑んでいた。穏やかに、優しく、だけどどこか寂しそうに。その色が滲んでいたのを見て、また涙が溢れ出す。あの日想いを告げた瞬間に意味があった喜びと、こんな素敵な人と共にいられない自分の狭量さに。ルチルの長い指が私の涙を拭う。いつもペンや筆を持っているのに、しなやかな手にペンだこは無い。全てのものを慈しんで使う、私の大好きな手。

「恋人という唯一の関係ではなくなっても、これからもあなたは大切な友人だよ」

 ああ。私は彼のお父様のような大きな愛を持てなかったし、お母様のようなひたむきさもなかったけれど。
 こんな素敵なひとが、全てを賭していいと互いに思えるひとに出会えますように。
 ぼやける世界と花の匂いの中で、ただそれだけを、私は願った。


 *


 私たちは友人に戻り、その数年後に同僚となった。同じ学校で教鞭をとり、合間には互いに相談したり手助けしたりできる、良い仕事仲間だったと思う。
 だけど、ルチルは世界を救う賢者様の魔法使いに選ばれた。かつてない甚大な被害を出した厄災への対策を講じるため、中央の国にある魔法舎で過ごすことになり、ルチルやミチルは雲の街を離れた。
 とはいえ、彼らは何かの折に顔を出しに来てくれていた。任務や薬草の採取など、理由がある時ももちろんあれば、「みんなに会いたくなって」「賢者様を連れてきたくって」とふらりと来てくれることも多かった。
 その日は、雲の街を離れることになった人のお別れ会だった。魔法舎に便りを出したらすぐに、召喚された四人全員で参加するという返事が届いたのだ。
 みんなで作ったプレゼントを渡し、ルチルたちが準備してきたというサーカスを披露したら、あとはみんなで食べて飲んでの大騒ぎ。家の中も外も好きに出たり入ったりして、主役と入れ代わり立ち代わり思い出話をし合っていた。
 お酒が大好きなルチルは最初からぐいぐい飲んで、早い段階でミチルに部屋の隅に座らされ、水を与えられていた。だけど、ルチルはこの程度で酔ったりしないと大人の私は知っている。
 主役が年齢の近い人たちと盛り上がっているのを聞きながら、私はルチルの肩を叩く。久しぶりに、一緒に散歩をしない? なるべく軽く聞こえるようにした誘いに、ルチルは気持ちよく頷いてくれた。
 私たちはそっと賑やかな輪を抜け出して、夜の中へ身を眩ませていく。まるであの時、二人で秘密の約束をした夜みたいだ。
 ルチルが呪文を唱えると、ぼんやりと光る鳥が現れて道を照らしてくれる。ルチルが魔法を使う時の、世界を愛おしむような優しい声が好きだった。友人から同僚になった後も、学校からの帰り道をこうして二人で歩いたこともある。だけど、すっかり立場の変わってしまった今になっては、照れくさいような、懐かしいような、不思議な心地が足をくすぐった。
 私たちはとりとめもなく話をした。雲の街や学校の近況、サーカスの感想、魔法舎のこと、中央の市場のこと。北の国での任務、西の国の喧騒、東の国の不器用で優しい街並み。私たちは平穏な毎日を愛していたはずなのに、ルチルの話は驚きと刺激に満ちていて、聞くたびに胸が躍った。それと同時に、恐ろしく厳しい場所だという北の国のことを穏やかに話し、魔法使いへの偏見が激しい東の国の優しさを謳うルチルの言葉のひとつひとつが、まるで絵本のように沁み込んでいく。私たちが愛する、平穏な毎日みたいに。

「――私ね」

 ぽつり、と言葉を落とす。思わず立ち止まった私に合わせて、ルチルと、光の鳥も動きを止める。言うべきではない、だけどずっと胸の中に燻っていた言葉が、彼の優しい言葉で開かれていく。

「ルチルと恋人だった時のこと、今は少し後悔しているの」

 そう告げた時、彼の若葉のような優しい瞳は悲しそうに揺らいだ。私の不躾な言葉に、怒るのでも驚くのでもなく、そうやって悲しんでくれるのだ。一方的な私が悪いなど、頭の片隅にさえないみたいに。
 そんな彼の優しさに触れるたび、私の後悔は膨らんでいく。
 まるで蕗の葉の上に落ちる、雨粒のように。

「だって、ルチルより素敵なひとなんて、いないんだもの」

 彼との未来をほんのひとときでも夢見たみたいに、私は未来を誰かと歩みたかったはずなのに。
 もう一度あの時に戻りたいわけでも、彼を困らせたいわけでもない。ルチルにぶつけるべきではない、私の、私自身への恨み言だった。
 ルチルの目がきょと、と大きく見開かれた。揺らいでいた悲しみを払って、呆気にとられたみたいに。だけど、すぐいつもの柔らかい眼差しになる。想いを素直にぶつけたときに、くすぐったそうに細くなる瞳も、ルチルの大好きなところのひとつだった。

「……魔法舎に行って、魔法を教わったり、他の方々の魔法を見たりしたから、腕も上がったはずなんだ。だから」

 彼の手元に見慣れた羽ペンが現れる。お母様から貰ったものなんだと話す横顔が、とても綺麗だったことを覚えている。

「祝福の魔法をかけるよ。あなたの未来が、どうか、素敵に彩られますように」

 私の大好きな呪文。大好きな魔法。大好きな温もりが全身に満ちる。彼の優しい祝福の中で、後悔にさよならをする私になりたい。
 彼を好きになったことも、想いを告げたことも、時を重ねたことも。
 生きる時間の違う彼を縛り付けなかったことも、胸を張れる自分に、きっと、いつか。




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