その日、魔法使いを見た
パレードを見た中央の少女の話(スノウ/ホワイト)
小鳥にされた少女の話(クロエ/ラスティカ)
村を焼かれた少年の話(オズ/フィガロ)
神の使徒の姉の話(リケ)
トナカイと暮らす村の少女の話(オーエン)
死の湖に身投げした少女の姉の話(ミスラ)
パティアの夫の話(ムル)
呪い屋に依頼をする人間の話(ファウスト)
平民の振りをする貴族の少年の話(ネロ)

魔法みたいな恋だった
ヒースと見合いをする少女の話(ヒースクリフ)
  *ヒースの婚約者の話(シノ)
南の国の少女の話(レノックス) (前提:曲芸師ログスト1)
北の最果ての村の少女の話(アーサー) (前提:犬使いのバラッド)

魔法使いの邂逅
かつて月に選ばれた中央の魔女の話(カイン)
人間に恋する魔女の話(ルチル/ミチル)
酒場の常連の魔女の話(シャイロック)(事後描写あり)
神様になれなかった魔法使いの話(ブラッドリー)














その日、魔法使いを見た

スノウとホワイトとモブ

 魔法使いさまたちが纏う服は、雨上がりにかかる虹と、真昼の太陽がそのまま形になったみたい。青空に輝くたくさんの花火。そこかしこから降りそそぐ、色とりどりの花びらと紙吹雪。みんなの嬉しそうな大きな声。それに負けないくらいにきらきらした、魔法使いさまたちの笑顔。
 まるで天国みたいだった。ううん、みんなが天国に行かないように、魔法使いさまたちが戦ってくれているのだと、知っているけれど。
 そんな中でわたしは、ひとつの馬車から目を離せなかった。
 馬車から大きく手を振る、そっくりの双子の魔法使いさま。みんなの声に応えながら、かわいい笑顔を振りまいている。
 夕陽を浴びた小麦のような金色の瞳。貴族の方みたいな艶やかな黒髪。わたしよりも小さな身体で世界を背負うにこやかな笑顔を、きっとずっと忘れないんだろうなって思ったのだ。


 *


「おばあちゃん、あのね!」

 家に帰ってすぐ、私はおばあちゃんの元へ駆け寄った。私にとって、初めてのパレード。中央の王都に引っ越してきたのが三年前で、一昨年はお母さんのお腹に弟がいて、去年は弟が小さくって、今年、やっと連れていってもらえたのだ。厄災が来て怖い思いをしたけれど、それを全部吹き飛ばしてしまうくらい、きらきらしていて素敵なパレードだった。
 おばあちゃんは昔にこの街に住んでいたことがあって、前も見たことがあるらしい。だけど、足を悪くしてしまったから、今年は一緒に出かけられなかった。だからパレードの感動は、おばあちゃんに一番に教えたかった。揺り椅子に腰かけたおばあちゃんに駆け寄って、その足元にしゃがみこむ。

「パレードを見たよ、賢者の魔法使いさまたちの! 素敵な魔法使いさまがいっぱいで、魔法でたくさん花火も見せてくれたの。それでね……」

 一番目を奪われたことを、一番素敵に伝えたくて、一度言葉を切る。まるでパズルみたいに、頭の中で言葉を選んで組み合わせていく。私の驚きを、おばあちゃんに、めいっぱいに教えたくて。

「……わたしよりも、小さな魔法使いさまもいたの。わたしより小さいのに、みんなのまえで、緊張もしないでにこにこ笑ってたの。すごかったあ……!」
「おや。それは黒い髪で金の瞳をした、双子の魔法使いじゃない?」

 ぱちぱち、と思わずまばたきをした。お二人だったことも、その姿のこともひとつも言っていないのに、どうしておばあちゃんは知っているんだろう。わたしと同じように驚いてほしかったのに、おばあちゃんは最初からずっと変わらずにこにこしたままなことに、わたしの方が驚いている。

「知ってるの?」
「そうだよ。それどころかねえ」

 ──そして。わたしはおばあちゃんから、今日一番、それどころか、今までで一番の驚きをもらうことになるのだ。

「あのお二人はあたしがお前くらいの年の頃から、いや、それよりも前から、世界を守ってくださってるのよ」

 ──驚きすぎて、声も出なかった。おばあちゃんの言葉を何度も何度も頭の中で繰り返しても、さっぱりわけがわからない。

「……どういうこと? 私よりも小さかったのに?」

「おや、知らなかったのかい。魔法使いはね、魔力が成長すると身体の成長は止まるのよ。大昔からずーっと、お二人はあのお姿のままなの」
 知らなかった、そんなの。そうなんだ。魔法使いは人間と同じ姿をしているけれど、人間とは違う……ってことは、聞いてはいた。それは不思議の力が使えることだと思っていたのに、そんなに。そんなに、違うなんて。

「……じゃあ、私が大人になっても、あのまま?」
「そうだねえ」
「おばあちゃんになっても?」
「そうそう」

 想像してしまった。私がいつか大人になって、お仕事をしはじめても。結婚したり、子どもを育てたりして、おばあちゃんになっても、パレードのたびに見るあの二人はいつまでも小さいまま。
 それはなんだか、とてもとても──、一生懸命、言葉を探す。私がいま、感じていることは。

「……寂しい。そんなの」

 一生忘れないと思った、お二人のあの姿。だけど二人の時間はもう止まっていて、来年も、十年先も、百年先も、きっと今日みたいに笑うんだ。私は成長して、変わっていくのに。あの二人はずっと変わらないまま。
 目の裏が痛くなって、ぽろ、と涙が零れた。私の小さなヒーローと、一緒に大きくなりたかった。




スノウ/ホワイト クロエ/ラスティカ オズ/フィガロ リケ  オーエン ミスラ ムル ファウスト ネロ
ヒースクリフ シノ レノックス アーサー  カイン ルチル/ミチル シャイロック ブラッドリー
▲目次へ














クロエとラスティカとモブ

 貴族のメイドとして働いていれば、誰でも一度は夢に見る。
 素敵な貴族の男性がある日突然見初めてくれて、ついに私も貴族の仲間入り──だなんて。

「こんなに美しく花が飾れるなんて。やっと見つけた、もう放さないよ。僕の花嫁」

 でも、いざそんな時が来た時は、喜びよりも驚きと混乱が勝つのだと知った。
 声に振り向いて、甘いお顔の素敵なひとを見つけた瞬間──まるで床が抜けてしまったみたいに視界が揺れ、足の感覚が消え去った。一度瞬きをしたら、私がいるのは檻の中。思わず叫んだけど喉からは小鳥のかわいらしい声しか出てこない。それ以前に、檻の外が大騒ぎだった。

「もうっ、ラスティカ、箒出して!」
「クロエは僕の心が読めるのかい? せっかく花嫁を見つけたから、今すぐ一緒に空の旅がしたいなと思っていたんだ」
「そうじゃないけど! 早く!」

 檻──だと思っていた場所は、鳥籠らしい。ぐらぐら揺れる鳥籠の中で、鳥へと姿を変えられた私は、必死に止まり木に捕まっていた。二つの不思議な言葉、自然に開く窓、外に身を投げ出す、私の鳥籠を持つ貴族様──だけど、私が落ちることはなかった。まるで風に乗っているかのように、眼下で景色が流れていく。お屋敷の庭園、領民の家々、活気のある市場。
 囀りさえ出てこない混乱と驚愕の中、私は──高揚と期待も、確かにしていた。


 *


「間違えたあ!?」

 だけどその真相を聞いて、思わず大声を出してしまった。私が連れていかれたのは街の外、何もない平原。私を小鳥に変えて連れ去った甘いお顔の素敵な人は、この平原に着くや否や最低な一言を放った。

『ごめん。人違いだった』

 混乱も驚きも、期待も高揚も全部全部返してほしい!
 きっと化け物のような形相だっただろう。赤い髪の男の子が見るからに焦った顔をしていた。

「本当にごめんね、この人の早とちりはいつものことで……君のことは必ず家に帰すから、本当にごめん!」
「あなたが飾っていた花があまりに美しくて、勘違いしてしまったみたいなんです。申し訳ありません」

 ……ここに来るまでの会話を聞いて、わかったことがある。
 二人は私の勤めているお屋敷のお客さん。赤い髪の男の子がクロエで、私を花嫁と勘違いして小鳥にしたのがラスティカ(意味が分からないけど、こうとしか言いようがない)。二人とも魔法使いで、一緒に旅をしている。で、誰かを花嫁と勘違いしちゃうのは、どうにもよくあることらしい。
 魔法使いのことは、本当によくわからない。魔法をかけられたあの瞬間の感情が全部無意味だったと知って、まだ怒りが収まらない私は、つい口を尖らせてしまう。

「探している花嫁とただの使用人を間違えるなんて、どういうことよ。あなたの花嫁は使用人だったの? そうじゃなきゃ──」
「ただの使用人だなんて言わないで」

 クロエの顔が真っ青になっていく隣で、ラスティカは穏やかな表情で私の手に触れた。クロエじゃなくてあなたが反省して、と言いたかったけど、その手があまりにも綺麗なので思わず言葉を失くしてしまう。傷ひとつない長い指先、優雅でしなやかな曲線、手入れのされた爪。その手と同じ、穏やかで優しい声が続いていく。

「君が丁寧に花を揃える手つき。花々が一番美しく見えるよう心配られた配置。部屋や廊下によって合う花や花瓶を選ぶ繊細さ。それができる人はなかなかいない。君はとっても、素晴らしい人なんだ」

 ……毒気を抜かれる、ってこういうことだと思った。怒りも苛立ちも落胆も、嫌な感情が全て溶けて流されていくみたいだった。今まで勝手に期待して、勝手に落ち込んで怒っていたのが恥ずかしくなるくらい。なのにそういう子どもみたいな感情でさえ、包み込まれて許されていく気がした。
 素晴らしい、なんて。今まで言われたこと、なかったのに。
 ラスティカの隣では、さっきまで顔を青くしていたクロエも頷きながら笑っていた。

「うんうん、本当に素敵だった! 玄関ホールの花瓶も君が飾ったの? 黄色で統一された中に青が差し色で入ってて、お洒落だったな。俺は仕立てをするんだけどね、インスピレーションが湧いてきちゃったよ!」
「ほ……本当に?」

 いつか見初められるかも、なんて夢見心地からくるものじゃなくて、自分の中に前からあったものの賞賛を受けて頬が熱くなった。それもこんな、素敵な魔法使いの二人に。

「嬉しい……お客様に気付いてもらえたのは初めて。綺麗な花があれば晴れやかな気持ちになると思って、仕事の合間を縫って世話をしたり飾ったり、季節や雰囲気に合わせて変えたりしていたの」

 本来の仕事は、屋敷のお掃除。メイドの中でも一番下の仕事だ。だけどある時間引かれた花を庭師さんに貰ったから、余っていた花瓶を勝手に使って飾ったら、誰にも文句を言われなかった。それどころか旦那様も奥様も、使用人のみんなも、花の近くを通ると一瞬だけ足取りを緩める。メイド長のお小言も、その日以来、少しだけ減った気がした。
 もしかしたらお花の効果かな、と思いながらさらに合間を縫って、インテリアに合わせて花の色を揃え始めた。買い出しの仕事があれば率先して行き、こっそり欲しい花を買ったりもしたけど、全くお咎めなし。一度だけ、花を飾っているところをメイド長に見られたけれど、文句を言われることはなかった。
 もちろん本来の仕事もしているから、ずっと花に向き合っていられるわけではない。限られた時間で、自分にできることを好きにしているだけ。それを、こんな風に認めてもらえる日が来るなんて。
 ふわふわ浮いてしまいそうな多幸感でいっぱいの私の前で、ラスティカが呪文を唱えた。私達しかいなかった平原に現れたのは、大きな鍵盤の楽器。……これは、チェンバロと言ったかな。

「やはり君は素晴らしい人です。花を愛する君の心に、一曲お贈りさせてください」
「き……曲?」
「ああ、ラスティカはチェンバロ奏者なんだよ。君のお屋敷にも、演奏のために訪れていたんだ。ねえ、せっかくだし、踊らない!?」
「えっ!? でも私、平民だし、ダンスなんか踊ったことないわ」
「俺も平民だよ! それどころか……ううん、正しいダンスじゃなくていいんだ。一緒に手を取り合って踊るだけで楽しいから!」
「ここには僕たち以外誰もいない。作法も何も必要ありませんよ」

 私が頷くよりも早く、ラスティカは曲を奏ではじめた。クロエは手を伸ばそうとして、一度だけ、手を止める。私の顔を見て、躊躇うように顔を強張らせたけれど、何かを呑みこむような深呼吸のあと、またクロエは笑った。そして、あっという間に私の手を取った。
 最初はわけもわからず、クロエにくっついて動くだけだったけど、少しずつクロエが言った言葉がわかってきた。ラスティカが奏でる旋律は自然に身体が動いてしまう。澄んだ綺麗な音に、心が跳ねる軽やかなリズム。何も考えず、身体が思うままに動くのって、こんなに楽しいことだったんだ。私とクロエの動きはてんでばらばらだったけど、それでもたまに同じ動きをすると、思わず二人で見つめ合う。それがまるで運命みたいで、最高に楽しい気分だった。
 彼らの言う通り、礼儀作法も何もない。私はクロエの足を踏んだし、クロエは石につまずいた。演奏を邪魔するくらい大声で笑ったし、ラスティカだって弾きながら踊り始めていた。
 めちゃくちゃでばらばらできらきらした昼下がり。あれだけ怒っていた私は、花嫁に間違えられて良かった──なんて、頓珍漢なことを考えていた。


 *


「どうだった!?」
「た、楽しかった……」
「でしょー!?」

 疲れることさえ忘れるくらいに踊って、ラスティカの音楽が鳴りやんだ途端に平原へ倒れ込んだ。一緒に倒れ込んだクロエの額には赤い髪が張り付いていて、だけどとっても、いい笑顔。私もきっと同じ顔をしている。ラスティカもチェンバロを魔法でしまって、クロエの隣に寝そべった。せっかくの上等なお召し物が汚れてしまうのに、誰も何も言わなかった。魔法使いには関係ないのかな。
 三人で寝そべって流れる雲だけを眺める時間は、まるで奥様たちのデザートのように贅沢だった。朝早くから夜遅くまで忙しく働く毎日の中で、こんなゆっくりした時間を過ごしたのはいつぶりだっただろう。
 動物の形に似ている雲を、指差しながら共有する。ラスティカの感性は独特で、私とクロエは「ええ?」ばかり言っていた。やがて真っ白の太陽が金の光を帯びだして、ゆっくり西の方へと傾いていく。最初に体を起こしたのはクロエだった。

「そろそろ家に帰らないとだよね。俺の箒で良いかな?」
「あ……ありがとう」

 差し出された手を取って、私も身体を起こす。日が暮れるまでこの二人と空を眺めていたかった。私が本当の花嫁だったら──なんてどうしようもないことも考えた。だけど現実は、私は貴族の小間使い。やらなきゃいけない仕事も、私の給金を頼りにする家族もいる。
 私はクロエの後ろに乗せてもらって、一緒に空に旅立った。宙に投げ出された足、細い柄の上で身体のバランスを取らなきゃいけない恐怖に最初は悲鳴を上げたけど、隣を飛ぶラスティカが「これは空の旅だ。クロエは決して君を落としたりしないよ」とすぐに言ってくれて、少し、落ち着くことができた。落ち着いてみるとクロエの箒はちっとも揺れなかったし、華奢に見えたその背中も、掴まっているととても頼もしかった。

「あー、そういえばラスティカ、今日泊まるところ決めてなかったよ。この子を送り届けたら、街で食材を買って、どこかで野宿しないとかも……」
「うちのお屋敷に泊まるのではなかった? お客様が宿泊されると聞いていたのだけど」
「その予定だったけど、君を連れてきちゃったから……泊めてもらえないかと思って」
「ああ、それならきっと大丈夫よ」

 街が見えてくる頃には、私も平気で話ができるようになっていた。クロエの顔は見えなくても、不安そうな顔をしているだろうとすぐにわかる。

「旦那様は魔法使いに寛容なの。なんでも遠い昔、家から魔女が生まれたんだけど、ある時突然箒で逃げて行ってしまったんだって。当時の当主様はずっと探し続けたけど見つからなくて、その悔いをずっと口にしていたから、代々当主はその魔女を探しているそうよ。本の好きな女性だったんだって」
「伯爵の寛容さは聞いていましたが、人探しをされていたのですね。だから旅をしている僕が呼ばれたのかな」
「そうかもしれないね。本の好きな貴族出身の西の魔女かあ……ラスティカは会ったことある?」
「ええ。今まで数えきれないほど」

 その言い方に、私とクロエは笑ってしまった。


 *


 お屋敷に戻ると、メイド仲間がみんな揃って目を丸くした。私がラスティカに見初められて、もう戻ってこないと思われていたみたい。一目惚れされたけどすぐに飽きられたかわいそうな子、という印象になりかけたから、慌てて訂正して回った。憐れむ眼差しは変わらなかったけど、「魔法使いって本当によくわからないわね」と納得はしてもらえたみたいだった。ラスティカたちは旦那様たちに再度の歓迎を受け、応接室に消えていった。
 次の日。私はメイド長に呼び出された。前の日のこともあって思い当たる節はたくさんあったのだけど、その要件は驚くものだった。
 私の清掃箇所を減らし、その分、お屋敷の中の花を管理する仕事を与える、だって。
 お客様と話した旦那様が、そうするように突然命じたそう。きっとラスティカたちが旦那様の前で私の仕事を認め、たくさん褒めてくれたのだ。
 感謝を伝えたかったのだけど、一番下っ端の私に、お客様を見送る仕事は来ない。玄関の喧騒が静かになって、ふと窓の外を見ると、空を飛ぶ二人の後ろ姿が見えた。
 二人と平原を転がったのが、なんだか遠い昔のよう。もしかしたら夢だったのかもしれないとも思うけど、いま私が堂々と花に触れていることが、現実だったことを教えてくれる。
 もうすぐ夏が終わり、秋めいてくる。そうしたら玄関の花は黄色から赤色に変えよう。花じゃなくて、色付いた葉でも良いかもしれない。赤と橙、緑なんかいいかも。応接室の花は大輪の花を使って豪華に。大きな花瓶、メイド長なら知っているかしら。
 ──貴族のメイドとして働いていて、私も一度は夢に見たこと。素敵な貴族の男性がある日突然見初めてくれて、ついに貴族の仲間入り──だなんて。
 だけど今はここに、彼らが作ってくれた居場所がある。
 まだ、誰かの花嫁になる時じゃない。




スノウ/ホワイト クロエ/ラスティカ オズ/フィガロ リケ  オーエン ミスラ ムル ファウスト ネロ
ヒースクリフ シノ レノックス アーサー  カイン ルチル/ミチル シャイロック ブラッドリー
▲目次へ














オズとフィガロとモブ

 僕は逃げた。瞬きのたびに上がる火柱から、焼け落ちて崩れる家々から、肌を舐める熱気から。僕を逃がしてくれた両親のことから、目を背けるように。
 喉が痛むのが、疲れからか熱からかさえわからない。頭から爪先まで全部が熱くて、本当はもう全部焼けちゃっているのかもしれないと思った。それでも足は動く。動かせる。もはやそこに僕の意志があるのかどうかさえわからないまま。
 開かれた場所に石が無残に崩れて転がっていた。それは村のシンボルの噴水だったものだ。それを無念に思う間もないまま、村の出入り口へと繋がる通りを駆ける。痛いも熱いも苦しいも、もう感じている暇はなくなっていた。悲しいは、きっと家の中に置いてきた。
 焼かれた村から逃げるために、質素な看板だけが立つ場所を抜けようとして──僕は、地面に投げ出された。躓いた感覚も、何かに邪魔をされた感覚もなかった。慌てて立ち上がろうとして、もう一度、地面に突っ伏す。嫌な予感に襲われて、腕を伸ばして下半身に触れた。ちゃんと、足はある。しかし手に伝わるのは震えだった。動かそうにも、痙攣を続ける足は僕の言うことをちっとも聞いてはくれない。腕だけで進もうにも、今度は腕が震え始める。再び地面に鼻をぶつけたところで、やっと、わかった。
 もう、ここで終わりなんだ。
 せっかく逃がしてくれたのに。ここまで走ってきたのに。誰のことも助けたりできなかったのに、ここで僕は、死ぬんだ。何もしていないのに。全部焼かれて殺されるようなこと、何もしていないっていうのに、どうして──一体だれが、こんなこと。
 涙が出ることに驚いた。水分なんて、とっくに全て蒸発したと思っていた。目を閉じると涙は頬を伝って落ちて、熱された地面に吸い込まれていく。ここで意識を手放したら、何もかも終わって、楽になれる。こんなに熱いのも、痛いのも、苦しいのも哀しいのも悔しいのも全部全部、消えてなくなっていく。
 そう思った時だった。

「また派手にやったな。制御が弱くなっているかもしれないよ。お前はちゃんと意識しないと、すぐやり過ぎるから」
「何も問題はない。この村に咲く毒花は、種子の一つ、根の一欠片に至るまで消し去るべきだ」
「そんな話もしたけどさあ」

 嘘みたいな声がした。炎の叫びしか聞こえない、悲惨だけがある場所で、まるで散歩でもするかのような気軽な声だった。
 声は足音と共に、少しずつ近づいてくる。逃げ出したかったけれど、身体はもう、ほんの僅かも動かない。さっきまで全部を諦めていたのに、今なお危険を察知して心臓はうるさいほどに鳴っていた。やがて足音が、僕の傍らで止まる。

「おや。まだ生きている人間がいたんだね」

 のんびりと、まるで歌うような声だった。死んだふりさえできなかった。このまま僕は、どうされてしまうのだろう。そんな恐怖に、余計に身体が震えた。
 しかし僕は上半身を抱き上げられ、開いたままだった口の中に何かを放り込まれた。それはまるで、寒い外から帰ってきてから飲むお茶のように優しい、甘いシュガーだった。
 それが口の中で溶けていくと、たちまち四肢の痙攣は止まった。瞼が自然に開く。僕を抱き上げていたのは、夜の海を思わせる髪と、どこまでも吸い込まれそうな不思議な色の瞳の男だった。その後ろでは、夜そのもののような長い黒髪の男が、無感情に男を見下ろしていた。炎の中にあって、それが当たり前であるかのように。

「助けるのか」
「たまにはね。本来俺は、人助けの方が好きだしさ」
「燃やすならすべて燃やし尽くせ、生き残りは余計なしがらみを生む。……そう言ったのはお前だろう」
「そうだったね。でもいいだろう? こんなちっぽけな少年に、しがらみを生む力なんてない」

 夜の海のひとが、僕の心臓に手を翳す。短い何かの言葉の後、内側の傷が塞がるように喉や腹の痛みが消えた。擦り傷も火傷も何もかも、まるで夢だったように痕も残さず消えていく。一瞬、殺されてしまったのかと思うほどの安らぎだった。
 必死で走ってきた時間さえ奪われた身体を抱え上げ、その人は僕を地面に立たせた。

「傷は癒してあげたよ、どこまでも遠くに逃げると良い。俺たちが追い付く前にね。ああそうだ」

 服についた土を払って、そのひとは笑う。穏やかに、柔らかに。なのに目だけが、まるで死神のように冷たかった。

「辿り着いた場所で広めてくれ。君の村を焼いたのは、この世界を征服する最強の魔法使い──オズだとね」

 その言葉を聞いて、何をも考えず背中を向けた。痛みのなくなった身体で、走る。走る。逃げる。恐怖の仕方も、憎悪の仕方も、何もかもを忘れていた。村の外の平原に飛び出す僕の中にあったのは、生存本能、ただそれだけだった。
 逃げる。逃げる。逃げる。いつもだったら疲れてくるはずの距離でも、何も感じない。頭の中を、あのひとの名前だけが回っている。
 今の僕にはこれしかない。
 ひとのかたちをした化け物たちの、名前だけ。




スノウ/ホワイト クロエ/ラスティカ オズ/フィガロ リケ  オーエン ミスラ ムル ファウスト ネロ
ヒースクリフ シノ レノックス アーサー  カイン ルチル/ミチル シャイロック ブラッドリー
▲目次へ














リケとモブ

 お姉ちゃんになるのが楽しみだった。お母さんのお腹がどんどん大きくなって、さわるとむずがるみたいに動くのがかわいかった。お母さんは触らせてくれなくて、寝てるときにこっそりしかだめだったけれど。
 赤ちゃんが生まれてきたら、一緒にお絵描きをしたり、お花を摘んだり、パンを焼いたりして遊ぶんだ。外のひとたちが楽しそうに、みんなでやってるみたいに。

 だけど、私は赤ちゃんに会うことはなかった。
 赤ちゃんを産むために教団に行っていたお父さんとお母さんは、帰ってきて涙を流していた。
 二人が言ってる言葉はよくわからなかったけれど、どうして一緒に帰ってくるはずだった赤ちゃんがいないのに、嬉しくて泣いてるんだろうって──不思議で仕方なかった。

 *

 あの変な一日は、何年経っても忘れられるものではなかった。親に聞いたら「あの子はお前の弟ではなかった」「神の使徒様だったんだよ」と言われ、そこではじめて、赤ちゃんは男の子だったんだと知った。だけど、弟じゃないってよくわからない。私と同じお母さんのお腹にいたのに? 神の使徒さまのことは礼拝で聞いたことがあるけど、その人がお母さんのお腹にいたってこと? じゃあ、私は使徒さまのお姉ちゃんってことになるのかな。
 礼拝は眠たいしつまらないし、なんだか怖くてあまり好きじゃなかった。だけどその日は、はじめて神の使徒さまがお目見えする日だとお父さんが言ったから、私は喜んで礼拝に行く支度をした。お父さんとお母さんは、やっと教団の素晴らしさがわかったんだね、なんて言って笑ってたけど、教団を悪く言うとぶたれるから何も言わず、そういうことにしておいた。
 お父さんとお母さんの間に挟まれて、礼拝をやり過ごす。内容はいつも同じ、近く訪れる世界の終わりのお話。いつもいつも世界が終わる話ばかり聞いているから、脅されてる気分で嫌な感じ。だからいつも私は、こっそりステンドグラスを眺めて過ごすのだ。それだけは、いつだって変わらずに綺麗だから。礼拝が終わると、待ちに待った司祭様のお言葉。
 今日から、神が遣わされた使徒様のお姿を拝することができます。
 喜びにざわめく声の中で、私も一緒に歓声をあげた。
 司祭様のご案内のもと、礼拝堂から出て通路をみんなでぞろぞろと歩く。私たち家族は司祭様の指示を受け、一番後ろを歩いた。みんなで向かうのは、礼拝堂のさらに奥だった。前にずうっと人がいるから、そこに何があるかは見えなかったけれど、使徒さまの姿を見たらしい人たちの声が前から聞こえてきたから、本当にそこに弟がいるんだと胸が高鳴った。
 順番を待ち、前に進んでいくと、次第にみんなの声の合間に「ありがとう」「ぼくがみちびきます」という、たどたどしくてかわいい声が聞こえてくる。ああ、私の弟は、こんな声をしているんだ。
 そしていよいよ、前の家族が感涙とともに去った。私はそこに、きっと壁の中に小さな窓があって、そこから弟が顔を出しているんだろうと思っていた。
 しかし、現実は違った。そこは檻だった。天井から床を貫く何本もの細い棒。あの子の年にしては大きいベッド。木で簡単に作られた小さなテーブル、その上にぽつんと置かれた黒い石と、ランタン。たったそれだけの小さな部屋は、私には牢屋にさえ見えた。
 その中に、弟はいた。私よりも白に近い金色の髪、だけど、目の色は私と同じ。夏のお日さまを浴びた葉の色。小さくて細い身体は、この格子の間をすり抜けられそうにも見えた。
 涙を流して、使徒様、とうわごとのように言う両親を押しのけて、私は格子を掴んだ。

「私があなたのお姉ちゃんだよ! ずっと会いたかった……!」

 格子の隙間から、手を伸ばした。触れたかった。まだまだ小さくてやわらかいてのひらに。何もできないかもしれないけど、弟に触れることができたら、何かが変わる気がしたんだ。
 だけど、まだ小さな弟は、手を伸ばした私を怯える目で見るだけだった。もっと手を伸ばそうとしたとき、頭を殴られて私はそのまま床に転がった。ひっ、とお母さんの短く小さな悲鳴が聞こえた。殴られた頭がずきずきと割れるように痛くて、転がったまま起き上がれないでいる私を突き刺したのは、司祭様の怒鳴り声だった。

「この方はお前の弟などではない。神がお前の母親の胎を借りて遣わされた、神の使徒様なのだ!」

 耳までも痛くなる大声の後、司祭様は慌てたように檻の中に入っていく。怯えて座り込むあの子に寄り添って、私にしたのとは真逆に、甘く優しい声で語りかけた。

「あの者は穢れに侵されているのです、何も気になさらぬよう。あなたは紛れもなく、神が遣わされた使徒でございます」

 ──穢れている。私が? 外で遊びたいのも、いい匂いのするものを食べるのも、きらきらしたものを身に着けるのも、何もかも我慢してきたのに。
 たった一人の弟でさえ、奪われてしまうの?
 司祭様に寄り添われた弟の目が、次第に怯えから軽蔑へと変わっていく。その目は確かに、私に向けられていた。


 *


 あのあと──私は家に帰ってから両親に散々叩かれた。「せっかく神の使徒を世にお届けできたのに」「一家の面汚し」「あんたのせいで」と散々の罵倒を受ける中で悟った。両親は弟を差し出すことで、教団の中での地位を高めたらしい。それが、私の言動でふいになることを恐れたらしかった。
 だから私はその日、家を飛び出した。親は何も言わなかった。穢れた私が家を出れば、地位を守れると思ったんだろう。実際にどうだったかは、それから一度も教団と関わっていない私にはわからない。
 なるべく家と教団から遠い場所へと逃げようとして、走って、走って、喉と胸とお腹が痛くなってきた辺りで思わず倒れ込んだ。後ろを振り返った時、教団の尖塔が見えて愕然としたことを覚えている。外は穢れているから、と必要以上に出してもらえなかった私にとってその距離は随分な冒険だったのに、いかに自分が狭い世界で暮らしていたのかを思い知らされた気がした。
 その時だ。私がいま働く喫茶店の、女主人に拾ってもらったのは。
 手入れのされていない髪に、何度も繕ったぼろ布のような服、土と痣まみれの身体。さぞ哀れで厄介な子に見えただろうけど、レナさんは事情を聞いたうえで、私を住み込みで働かせてくれた。ちょうど掃除してくれる人を探そうと思っていたの、と微笑んで。真偽は今もわからないけど、どちらにしても、本当に運が良かったと思う。
 今、私はその喫茶店を、レナさんと二人で切り盛りしている。<大いなる厄災>の襲来で店も被害を受けたけど、幸運にもうちは皿や花瓶がいくつか割れた程度で済んだので、立て直しも早かった。賢者の魔法使い様の叙任式が終わった頃にはお客さんも戻って来て、そのうちに常連のおじさんから奇妙な噂を聞いた。

「近くにほら、終末教団ってあるだろう。あそこで神の使徒と呼ばれていた魔法使いが、賢者の魔法使い様の一人らしいぞ」

 ──教団の名と、神の使徒という言葉を聞いて心臓が跳ねる。私はなるべく自然に聞こえるように、そうなんですね、と相槌だけを打った。
 叙任式には足を運んだけれど、人が多すぎて、賢者の魔法使い様の姿は一枚の茶葉ほどの大きさにしか見えなかった。だから、神の使徒を見ている私にも、その噂の真偽はわからない。王都は人が多いし、きっとすれ違ったってわからないだろう。
 あの時の軽蔑の眼差しと、頭を殴られた時の痛みは、まるで呪いみたいに身体にこびりついている。だけど――と、お客さんが途切れた間に、外の掃除をしながら考える。あの檻に閉じ込められていた子が、外の世界に飛び立てたのなら、理由がどうあれ安堵する。どんな形でも、どうかあの子が幸せに感じる出来事や人と出会えていますように。
 そこでお客さんがやってきて、私はぱっと笑顔を作って店内に案内した。閉めた扉の向こうを、茶髪と淡金色の髪の男の子が二人、本を抱えて楽しげに歩いていた。




スノウ/ホワイト クロエ/ラスティカ オズ/フィガロ リケ  オーエン ミスラ ムル ファウスト ネロ
ヒースクリフ シノ レノックス アーサー  カイン ルチル/ミチル シャイロック ブラッドリー
▲目次へ














オーエンとモブ

 燃える炎のような赤い髪、迸る血潮のような赤い瞳。どちらの魔法使いにも、決して近づいてはいけないよ。
 まるで子守唄のように、幼い頃から両親にそう言われ続けてきた。
 真夏以外は雪に覆われる北の国で、そんな色の髪や目に出会うことなんて、本当にあるのかな。
 毎晩そう思いながら眠りに就いていたことを、私は今でも覚えている。


 *


 吹き付ける風はますます強く、冷たくなる。横殴りの大粒の雪が頬を叩いて、悲鳴が喉の奥でつかえる。状況が良くなるなら叫びたいけど、ただ貴重な水分を奪われるだけだと身体が知っている。トナカイたちが私を守るように身を寄せてくれている。この子たちと一緒なら雪原を駆け抜けられるけど、今だけはそうできない。
 私の村はトナカイと共に暮らしている。我が家も数頭飼っていて、彼らとともに森へ行って木の実を採ってくるのは私の仕事だった。今日も木の実で籠をいっぱいにして、いつものように村へ帰る、何事もない一日のはずだった。
 しかし帰りの途中で、トナカイが一頭、足をもつれさせて転倒してしまった。私にも他の子にもケガはなかったけれど、転び方が悪かったのか、その子──ルドルフは立ち上がれなくなってしまったのだ。私自身と他の子の安全を重視するなら、ルドルフを繋ぐ縄を切って置いていくべきだと知っている。だけど、ルドルフだって大事な家族だ。置いていくなんてできない。一度村に帰って助けを求めるにも、雪がだんだん強くなってきている。もう一度この場所に帰れる保証もないし、この子が置いていかれたと感じて無理をしてしまう可能性もあった。まだ若い子だ。私たちが先に帰ったら傷つくだろう。
 非常時に備えて持っている薬草も、トナカイには効果がなかった。痛みが強いのか、ルドルフは吹雪と化した雪の中で荒い呼吸をしていて、見ているこちらが苦しい。そして、この天候は人間の私にも厳しいものだった。彼らと違って私は毛皮を持たないし、着込んだ服は下着に至るまで雪に濡れて体温を奪っていく。むき出しの頬を雪が叩いて、許されるなら叫び出したかった。だけど、だけど私は耐えた。ぐっと耐えて、どうすればこの子たちと村に帰れるか考えて、その末に祈る。ここでできることは何もない。どうか、父さんか母さんが気付いて、探しに……迎えに来てくれますように──。
 ──気配に気づいたのは、そう祈った瞬間だった。不安そうだったトナカイたちが突然顔を上げ、みんなで同じ方向を向いたのだ。縋るような気持ちで、私も痛いのを我慢して同じ方へ顔を向ける。
 そこに立っていたのは、ひと──の、ように見えた。父さんでも母さんでも、村の人でもない。雪に紛れる銀色の髪に、白い外套。裏地の紫が森の中で見る大輪の花のよう。若い木のように細いのに、吹雪の中にあっても折れることのない立ち姿。異様ともとれるその姿は、ただのひとではなく、魔法使いなのだろうとすぐわかった。何より特徴的だったのは、迸る血潮のような赤い右目と、真夏の果物のような金色の左目。一瞬、子守唄のように言われ続けてきた両親の言葉を思い出す。だけど、この魔法使いは片方の目は金色だ。あの言葉の魔法使いじゃない。
 この場にいらしてくださったのは、何かのお恵みだと信じたかった。私は怪我をした子の隣で蹲りながら、必死に頭を下げた。伝え聞く言葉のように、彼が恐ろしい魔法使いでないことを必死に願いながら。

「魔法使い様……魔法使い様、どうかこの子を……ルドルフを助けてください……!」

 身体をなるべく小さくした私に、彼の表情は見えない。だけど、降ってきた声は果物を頬張るように気安かった。

「対価は?」

 ――これは、対価を払えば聞いてくれるということ? 私は必死に言葉を手繰り寄せる。今は命以外だったらなんだって手放せた。

「ソリにレーヌの実が積んであります。砂糖と煮詰めるとおいしいジャムになります。そのまま持って行ってくださってもいいですし、明日まで待っていただければジャムにしてお渡しもできますから」
「ふうん。悪くないな」

 歌うように紡がれた言葉は機嫌が良いように聞こえた。淡々とした声で何かが呟かれると、ルドルフを紫色の光が包んでいく。まるで夢みたいなその光が消えると、ルドルフの呼吸は落ち着き、すうっと魔法のように立ち上がった。驚きと喜びが私とトナカイたちの間に広がっていく。私が無礼にも感謝さえ忘れて立ち尽くしてると、彼は長い指先ですっとソリの方を指した。

「籠のそれ、全部使って作って。出来たらトナカイの角に鈴を下げて鳴らすんだ。それができなければ、お前の村を滅ぼしにいく」

 軽やかに破滅を口にするそのひとは、よく見るととても綺麗な顔をしていた。怖いことを言いながらも薄い唇は嬉しそうに弧を描いて、色の違う瞳は楽しげに細められている。恐ろしい魔法使いごっこをする、村の小さな子のような表情だった。
 私は感謝の言葉と共に、もう一度頭を下げた。彼は上機嫌に鼻を鳴らして、雪に溶けるように消えていった。


 *


 予定より随分遅く帰った私を、出発の準備をしていた両親が抱きしめてくれた。ちょうど探しに行こうとしていたところだったらしい。身体が氷のように冷たいと思っていたら、体温は真逆に高熱となっていて、すぐにベッドに横にされた。とてもとてもジャムを作れる体調ではなかったけど、私は必死に、助けてくれた魔法使いがいたこと、その魔法使いにレーヌジャムを捧げるよう言われたことを母に話した。母は私の看病を父に任せて、キッチンに駆け込んでいった。
 すぐに高熱が出たからか解熱も早く、翌日には微熱程度にまで下がった。私は母が作ってくれた大瓶四つ分のジャムを籠に入れて、彼に言われた通り、トナカイ──せっかくなので、治してもらったルドルフの角に、獣除けに使っている鈴を下げて首を振ってもらった。静かな曇り空にしゃらしゃらと歌うような鈴の音が響いて、私は供物のように、ジャムの入った籠を天に掲げる。
 それから数度、瞬きをした後──もったりと重たく甘やかな空気が、一瞬手に触れた気がした。と思ったら、私が掲げていた籠は攫われたように消えていた。
 手に触れた空気は気持ちの良いものではなかったけれど、頬が自然に緩む。命を救ってもらった恩に見合うものではなくとも、私の“約束”だけは果たせたから。


 私もいつか子どもが生まれたら、子守唄のように我が子に話すのだろうか。
 燃える炎のような赤い髪、迸る血潮のような赤い瞳。どちらの魔法使いにも、決して近づいてはいけないよと。
 そして──赤と金の瞳の魔法使いには、あなたの母が命を救われたのよ。
 もしも会うことができたなら、母がいつまでも感謝していると伝えてね、と。




スノウ/ホワイト クロエ/ラスティカ オズ/フィガロ リケ  オーエン ミスラ ムル ファウスト ネロ
ヒースクリフ シノ レノックス アーサー  カイン ルチル/ミチル シャイロック ブラッドリー
▲目次へ














ミスラとモブ

 妹が死んだ。朝から夕暮れまで湖ばかり見ている、愚かな妹だった。
 赤い髪をした神様は、異様に冷たく、肌のふやけた妹の遺体を見て、一瞬だけ動きを止めたように見えた。
 だけどすぐに、もう動かない妹を抱いて小舟に乗せる。
 そこに慈悲もなく、感慨もない。まるで私たちが夜眠るのに、ベッドに腰かけ明かりを消して布団を被る、そんな流れと同じように単調だ。
 なのにきっと、神様の手に抱かれている今の妹は、この上なく幸せなのだろうと思わされて──姉の私は、ひどく寂しかった。


 *


 私の村では、死んだ人間は神様に連れられて“死者の国”へと旅立つ。湖畔で火を焚くと、神様が死者を迎えにやってくるのだ。目が合ったらお前も連れていかれてしまうよ、と幼い頃から言われているから、神様の顔は見たことがない。わかるのは、湖面を反射する炎よりも濃い赤の髪と、すらりと伸びる長い手足を持つことだけだった。
 実際に妹は好奇心に負け、祖母が死んだときに神様の顔を見たらしい。妹がおかしくなったのはその日からだ。日課の合間を縫っては湖へ足を運び、霧の向こうに微かに見える、神様の住まう死者の国を眺め続けるようになった。父が叱っても、母が宥めても、私が遊びや木の実拾いに誘っても、妹が湖に行くのを止められなかった。
 そして妹は、湖に身を投げた。姿が見えないことに気付いた父が真っ先に湖に向かったけれど、その時にはもう遅かった。何のメッセージも残さずに死んだけれど、誰もが神様に魅入られてしまったのだとわかっていた。ここ数日は特に、私相手に「死者の国で、神様と一緒に暮らしたい」と夢見心地で話していたのだ。叱ることも諭すことも諦めていた私は、ただ相槌を打っただけ。あの時真剣に止めていれば、ほんの少しでも変わっただろうかと思ってしまう。だけど、両親は泣き腫らした目で「あなたは何も悪くない」と抱きしめてくれた。愚かな妹だった。だけど、愛しい妹だったのだ。
 私たちは夜、湖畔で火を焚いた。妹を奪った神様を呼ぶのは嫌だったけど、これが妹の終の望みであることも知っていた。神様が来るのを待ちながら、私は瑞々しさを失った妹の髪に野花を飾り、作り物みたいに白くなった頬と唇に草の実で紅を差してやった。好きな人に会えるのだから、きっと、少しでも綺麗になりたいだろうと思って。
 瞼も薄紅に塗って、服の中には、一緒に食べられるよう好きな果物を仕込んで。最後まで妹の身体に触り続ける私を、両親は何も言わずにじっと見つめていた。やがて湖面に映る炎が大きく揺らぎ、暗い夜のなかで水の揺れる音が足音のように響いてくる。炎よりも赤い髪をした神様が、小舟に乗ってこちらに向かってきていた。
 私たちは咄嗟に顔を下げる。目を合わせないように。岸に船を止めた神様は、大型の獣のようにゆるやかな動きで歩いてくる。何も言わずに妹を抱えようとして、その異様な冷たさとふやけた肌に気付いたんだろう。一瞬だけ動きを止めた。

「溺れたんですか。若い娘なのに」

 ──それは独り言ではなく、私たちへの問いだったらしい。いつもは遺体を抱えてすぐに船に乗る神様が、返答を待っていた。隣にいる両親の身体が震えているのを感じて、代わりに私が、俯いたまま、口を開いた。

「湖を見て思いに耽る、変わった子でした。ついには湖に、身を投げたんです」

 ひとつまみほどの恨み節がこもってしまったけれど、神様は「へえ」と気のない返事をするだけだった。あなたを思っていた、ということは、きっと伝わらないままだった。
 神様は妹を船に乗せていく。私が飾った野花がはらはら落ちても、神様は気に留めたりしない。そこに慈悲もなく、感慨もない。まるで私たちが夜眠るのに、ベッドに腰かけ明かりを消して布団を被る、そんな流れと同じように単調だ。
 なのにきっと、神様の手に抱かれている今の妹は、この上なく幸せなのだろうと思わされて──姉の私は、ひどく寂しかった。

「あの」

 思わず、声を出していた。両親が私の肩を縋るようにきつく抱き寄せる。だけど、視界の隅で白い外套がはためいて、神様が私の声に振り返ったのだとわかる。それをわかってなお、黙るわけにはいかなかった。

「妹が行く、死者の国って──どんなところなんですか」
「何もないですが、良いところですよ。あなたも死ねばわかるんじゃないですか」

 穏やかな声だった。薄い感情の中に、何かを愛おしむような色を含んでいた気がして、私はこんな声で話す人の顔を、見たいと願ってしまった。
 理性が警鐘を鳴らすよりも早く、顔を上げた。神様はずっと俯いていた私のことを、まっすぐに見ていたらしかった。
 父さんよりも高い背丈、ふわりと結ばれた優しい唇、湖の一番深いところみたいな緑の瞳、高く通った鼻筋。
 とても、綺麗なひとだった。


 *


 結局、私が死者の国に行くことはなかった。妹の死から数年後、ひどい寒波が訪れて、湖に分厚い氷が張って水源として利用できなくなってしまった。行くあてがあるわけではないが、このまま住んでいても死を待つ一方だったので、私たちはとにかく村を出ることにした。この冷え込みなので、旅に出ることも危険ではあったが、近くに人間に優しい双子の魔法使いがいるという噂に縋ることにしたのだ。
 最低限の荷物をまとめたあと、私は最後に妹に別れを告げるべく、湖畔に足を運んだ。ここ最近はずっと吹雪が続いていたけれど、今日は珍しく風の弱い、先の見えない旅に出るにはうってつけの日だった。久しぶりにあの小島を見た気がする。私たちがここを離れても、あの子はきっといつまでも恋した神様と共に過ごすのだろう。言いようのない悔しさと寂しさに、じくりと胸が痛む。
 その時だった。

「ミスラ!」

 まるで鈴が鳴るような、軽やかで綺麗な声が降ってきた。何か宝物を見つけたかのような、子どものように無邪気な愛らしい声だった。思わず空を見ると、湖の小島に向かって何かが飛んでくるのが見えた。
 長い金色の髪に三角帽子を被った、箒に乗った綺麗な女性。私たちとは違う生き物、魔女なのだとすぐにわかる。
 あまりにも突然のことに呆気に取られていたのは、どれほどの時間だっただろう。魔女は箒と共に、小島からまた飛び立った。今度は赤い髪をした、ひとりの魔法使いを傍らに連れて。
 ──思えばその時、初めて知ったのだ。
 神様にも名前があったことと、妹が本当に愚かだったことを。




スノウ/ホワイト クロエ/ラスティカ オズ/フィガロ リケ  オーエン ミスラ ムル ファウスト ネロ
ヒースクリフ シノ レノックス アーサー  カイン ルチル/ミチル シャイロック ブラッドリー
▲目次へ














ムルとモブ

「やあ」

 背中から降ってきたのは、物語の表紙を開くような声だった。ここは僕しかいない書斎で、不寝番の騎士以外は皆寝静まっている時間。誰かの声がするはずのない環境だった。
 反射的に振り返ると、いつも固く閉ざされているはずの大きな高窓が開いていた。その縁に立つのは、大きな三角帽子と靡くローブ、夜闇の中でも爛々と輝く緑の瞳、派手な箒が印象的な──魔法使い。西の国の民であれば誰もが知っている、天才学者のムルだった。

「侵入者を見るような顔をしないでくれ。招待状を送ったのは君だろう?」

 驚愕に目を見開く僕を、ムルはそういって笑う。手元から箒を消すと、そのまま窓から飛び降りて、ふわりと猫のように僕の傍らに降り立った。
 確かに招待状を送ったのは僕だった。彼の所在はわからなかったが、駄目で元々と未開の天文台へ。今日が終わる時まで、あなたの都合の良いときに、と手紙には書いたが、まさか本当に深夜に窓から現れるとは思わなかった。

「……来てくれないかと、思っていました」
「内緒の話は夜にすべきだと思ってね。秘密を共有するなら、賑やかな太陽よりしとやかな月。そして大事な話は物事の直前にした方が緊迫感が高まる。何より」

 どこからともなく呼び出した柔らかそうな椅子に、彼は足を組みながら腰かけた。絹のように滑らかすぎる言葉は、決して用意されていたものではなく、彼の頭の回転から紡がれ続けているだけだと、彼が喋るのを見たことがある者は皆が知っている。

「君はちゃあんと待っていた、つまり俺に期待をしていたはずだよ。──さて、呼ばれた理由には推測がつく。街一番の富豪の君と、世界を飛び回る貧乏学者の俺を結びつけるものは、一つしかないからさ」

 手袋を纏う手が、一の数字を示す。その指先に至るまで、彼の動作は優雅だった。

「明日、君の妻になる人。彼女は俺の希少な友人。どうしたんだい? もしかして、奪われるかもしれないと思った、、、、、、、、、、、、、、?」

 ──容赦も遠慮もなく放たれる彼の言葉に、息が詰まった。欠片ほどの誤りもなく、その通りだったからだ。
 彼のように滑らかな言葉は出てこない。頭の中で言葉を手繰る僕を、彼はじっと見つめていた。その眼差しに急かすような空気はなく、黙った僕の姿を楽しんでいるようにさえ見える。人に見られているといつもは焦ってしまうのに、星の光のようなあざやかな眼差しの中では、不思議と落ち着いて言葉を探すことができた。

「……彼女は、素晴らしい人です。あなたの手助けがあったとはいえ、世間の逆風に負けることはなかった、勇敢で、聡明な……。祖父の事業を継いだだけの僕では不釣り合いだ」

 ずっと考えてきたことを言葉にするのは、思っていたより辛かった。亡くなった父の代わりに、言われるがままに事業を継ぎ、言われるがままに経営し続けてきた。そんな僕と違い、彼女は男性が多い研究者たちの中で、折れず、負けず、研究を続け、未開の天文台という素晴らしい施設を作り上げた。明日、彼女と夫婦になるといっても、まだ夢の中にいるようだった。

「……だから、どうしても不安だった。彼女に相応しい、知恵と勇気のあるひとのところに、行ってしまうんじゃないかって……」
「あっはっは! まさか本当に俺がパティアを奪うと思われていたなんて!」

 彼は僕の前で、腹を抱えて笑い出した。不安と恐怖にがんじがらめになっていた僕にはあまりにも予想外のことで、笑い転げる彼を見ることしかできなかった。椅子からも落ち、ローブが皴になるのにも変わらず、彼は文字通りに転げていた。笑われているのは間違いなく僕なのに、不思議に侮辱に感じない。彼はただ、本当に、“奪うと思われていたこと”に対してだけ笑っている。

「シャイロックが聞いた時の反応が楽しみだ。俺の世間での評価はよほど酷いらしい。俺はいつでも紳士でいるつもりなんだけどなあ」

 ひとしきり笑い終えると、彼は這いずるようにして椅子に戻っていく。座ろうとしていた時の優雅さはもうどこにもないのに、それでも変に見苦しくない。何かを取り繕う様子もなく、もう一度椅子に腰かけて、先ほどまで笑い転げていたのが嘘のように微笑んだ。

「だけど、そうだな。折角だから聞かせて。もし俺がパティアを奪うとここで宣言したら、君はどうする?」
「……あなたの研究への援助は惜しまない。宝石だって」

 これはあらかじめ、用意していた言葉だった。もしも条件を提示されたとしたら、僕に出せるものはこれしかない。

「ここから好きなだけ、持っていって構わない」
「へえ、お金を差し出すと。君にとってパティアはお金で買うものだということ?」
「違う! ……違う、だけど」

 息が詰まる、だけど声は出さなければならない。彼は驚いた様子は一つも見せない。僕が発する言葉を待っているからだ。

「僕にはこの事業と宝石しかない。彼女への求婚だって、天文台や研究への援助で釣ったようなものだ。……差し出せるのは、これくらいしか」
「ああ、やはり今日訪れて正解だった。彼女を冒涜した状態で明日を迎えさせるわけにはいかないな。俺の数少ない友人の結婚式なのだから」

 彼は立ちあがる。冒涜だなんて、心あたりの無い言葉にもう一度反論しようとしたが、彼の鮮やかな緑の眼差しに射抜かれて何も言えなくなった。心の奥底まで見透かされるような瞳は、純度の高い宝石にとてもよく似ていた。

「君が求婚に何を使ったかなんて関係ない。彼女が君の求婚にどうして応えたか、だ。そもそもパティアの研究に金が必要なら、俺がいくらでも集めてくる。彼女の研究は俺の研究にも繋がるからね。パティアが金に釣られただなんて考えは今この時を持って捨てた方が良い。君のその卑屈さは、彼女への冒涜となる」

 立って、僕を見下ろして、滑らかに口先が動く。耳の痛い言葉は僕を蝕むけれど、それが何故だか苦痛じゃない。彼の鮮やかな瞳から目を離せないでいる僕の前で、薄い唇がにんまりと、まるで猫のように弧を描く。

「どうして彼女が応えたか。わからないならわかるまで、ずっと、いつまでも考え続けて。それは誰かに与えられるべきものじゃないと、愚かな君にもわかっているだろう?」

 す、と彼が手を伸ばすと、その手の中に箒が現れる。そしてサーカスのように、それを両手でくるくると回してみせた。魔法使いが去る時なのだと、ただの人間でもわかる。

「俺が君に求めるのは金でも宝石でもない。彼女を、君が俺に差し出さなかった大切な宝石のように扱ってほしい、ただそれだけだ。何故なら彼女は、そうされるべき人だと俺は思っているんだよ。そこに何の理論もありはしなくとも」

 彼はまるでそれが椅子であるかのように箒の柄に腰かけると、人差し指で部屋の奥を指差した。──そこには決して誰にも渡せない、家宝ともいえるようなダイヤモンドが隠されている。この家の中でも、限られた者しか知らないはずだった。その衝撃に何も言えないでいると、ふわりと彼は箒と共に浮かび上がった。

「それじゃあ、俺はここで立ち去ろう。こう見えても忙しくてね。明日は大切な友人の結婚式なんだ!」

 机の上に積まれた書類を巻き上げながら、開いたままの高窓へと飛んでいく。挨拶も忘れ、見上げるだけの僕の前で、彼はずっと笑っていた。

「さようなら、明日、世界で一番幸せな日を迎えるきみ。明後日からはもう会うことはないだろうけど──」

 風とともに、星空の中へと踊りあがる。開かれた高窓が、魔法使いを吸い上げて、少しずつ閉まろうとしていた。

「どうか末永く。その短い命尽きる時まで、己の幸福を求め続けて! 俺はそういう人間が好きだからね!」

 高らかな声を書斎に残して、高窓は静かに閉ざされた。何事もなかったように、書斎はしんと静まり返る。このほんの僅かな時間が夢ではなかったのは、床に舞い散った書類が教えてくれている。
 それを全て拾い集めてから、もう一度、高窓を見上げた。同時に、壁に掛けた時計が零時を知らせる。ああ、いけない。執事に知られたら怒られてしまう。書類を元通り机に戻して、こっそり書斎を出て寝室に向かった。
 彼女が僕に応えてくれた理由なんて、今の僕にはわからない。いつわかるのか、いつかそんな日が訪れるのかさえわからない。
 なら考え続けよう。彼が僕に言ったように。彼女が僕に応えてくれた理由、それに僕が一体何を返すことができるのか。
 今日は愛する彼女を、大切にするのだと──神に誓いを立てる日だ。




スノウ/ホワイト クロエ/ラスティカ オズ/フィガロ リケ  オーエン ミスラ ムル ファウスト ネロ
ヒースクリフ シノ レノックス アーサー  カイン ルチル/ミチル シャイロック ブラッドリー
▲目次へ














ファウストとモブ

 身寄りのない私を愛してくれた妻がいた。彼女との間にできた愛しい息子もいた。息子は育ち、穏やかな女性と結ばれ、私にとっての孫が生まれた。
 余るほどの幸運を抱くのと同時に、幼い頃からこの身に巣食う恐怖と哀しみが、憎悪へと変わっていく。
 私が愛した妻や我が子、孫のことを、きっと一番に喜んでくれたであろう家族は、あの時みな火に呑まれてしまったのだから。
 ──そんな時。街で出会った男は、私の憎悪を見抜いて言ったのだ。
 自分は魔法使いであること。そして、腕の良い呪い屋を知っているのだと。


 *


 死ぬ前に登山をする、という浅はかな嘘をついて、心配する息子家族と妻に見送られながら家を出た。農作業をしながらやんちゃな息子を育てていた私は、年齢の割には体力があると自負している。しかし老いた足では、迷いの谷の麓につくまでに三日もかかってしまった。
 休憩もそこそこに山で見つけたのは、二股に分かれた大きな木の根。魔法使いに教わった目印だった。その洞に身を潜めると、ただ暗いだけのはずの場所から、まるで空に投げ出されたかのように転がり落ちる。何も知らなければ弱った心臓が止まってしまいそうな出来事だが、ここまでは魔法使いに聞いていた話の通りだった。
 ──どすん、と、肩に衝撃を受ける。先程まで薄暗い森にいたはずなのに、そこは穏やかな陽射しで満ちていた。目が明暗差に慣れず眩む。目を薄く瞬かせ、ゆっくりと明るさに鳴らしていく。痛むほどの明るさの中、そこにあったのは家というよりは小屋に近い建物で、その庭には青年が立っていた。
 良い天気だというのに、彼が纏っているのは漆黒のローブ。若く見えるのに威厳さえ漂う風格、突如現れた私にも戸惑うことのない姿。──魔法使いだ、と直感した。彼は予定外の来訪者である私を、警戒した表情でじっと睨んでいた。危害を加える気はないことを伝えるために、私は地に膝をつく。

「あなたが、迷いの谷で呪い屋をやっているという魔法使いだろうか?」
「……そうだ。誰から聞いたんだか……よくその身体で、ここまで辿り着いたな」

 彼は手にした水差しを木の台に置きながら、感心のような、呆れたような、感情の読めない溜め息をついた。ここまで足を運びながらも、半分ほどは疑っていたあの魔法使いの言葉は、本当だったのだ。私は胸が震えた。これでようやく、積年の願いが叶う。陽射しを拒むようなサングラス越しに、彼が膝をついたままの私を見下ろす。

「あまり人間の依頼は受けないんだが……呪いたいのは誰なんだ?」
「オズだ! 生まれた村を焼いたオズを……オズを呪ってくれ!」

 瞬間、それまで感情の薄かった彼の瞳が見開かれた。その首は、即座に横に振られる。そこに何の躊躇いも迷いもなかった。

「何を馬鹿なことを……その依頼は聞けない。相手が規格外だ、君自身に返ってくる」
「私のことはどうだっていい。孫の顔も見られたんだ、どうせ先は短い」
「人間がオズを呪って死ぬだけで済むと思うな。魂の根幹に作用して、理に戻れなくなる可能性だってある。そもそも、僕にオズを呪う力がない。倍以上になって返されるのが目に見えているからな。他を当たったって同じだ、諦めろ」

 一切の迷いなく、流れるように述べられる拒絶に、本当にオズを呪うことは不可能なのだと思い知らされる。晴れやかな期待が淡く打ち砕かれて、背中から糸が抜かれるような心地がした。

「……そんな……。オズに復讐するには、これしかないと思ったのに……」

 怪しい魔法使いの言葉に縋って、三日もかけてここまで来て、やっと、辿り着いたと思ったのに。
 全身から力が抜けて、思わず地面に蹲る。生命力に溢れた土の匂いが忌々しく感じられたのは、これが初めてだった。かつて村を焼かれて逃げ込んだ場所で、人手を求めていた農夫に出会い、日々の糧を得るために働いた。優しい主は妻を紹介してくれ、独立の手助けもしてくれた。土の匂いは馴染み深く、愛したものであったはずなのに。
 失意に沈む私の頭に呆れたように落ちるのは、彼の大きな溜め息だった。それに続いてはらはらと、木の枝から零れる花のように、不器用な言葉が降ってくる。

「オズに村を焼かれながら、孫の顔を見るまで生きて……身体も衰え、憎悪で魂を擦り減らしながら、こんなところまで辿り着いたんだ。とんだ力だよ。僕に君の依頼を聞くことはできないが」

 ガチャ、とドアの開く音がした気がして、私は顔を上げた。玄関の傍に立った彼が、扉を僅かに開けてこちらを見ていた。

「上がっていきなさい。茶くらいは出そう。そしたら麓の村まで送っていく。ここに来たことは忘れて、余生を過ごすといい」

 その優しい声色に導かれるように、一度沈んだ身体は動き、覚束ない足取りながらもその扉に辿りつく。簡単な作りの扉の向こうは、彼の性格と生活を示すように素朴で、何より穏やかだった。


 *


 気付いたら、小さな村の酒場の片隅に腰かけていた。……見慣れない酒場だ。どうしてこんなところにいるんだったか。カウンターに書かれた店名を見て、ここは嵐の谷の麓の村だと知る。──嵐の谷? 迷いの谷と呼ばれるところか。家からは歩いて二日はかかる。酒に酔ったにしちゃあ、随分な悪酔いだ。
 ……いや、違うな。そういえば、登山をしにきたような気がする。だとしても、わざわざ迷いの谷がある場所でやらなくったっていいし、もう登山の気分でもない。今までやったこともない登山をしようと思うなんて、どんな酒の酔い方をしたんだ?
 まあ、そんなことを思ったところで仕方がない。外を見る限りもう夕刻のようだし、ここで一晩過ごして家に帰るとしよう。体力には自信があるんだ、年は食っても、歩いて帰るくらい訳はない。
 それにしても、先ほどまでエルダーフラワーの酒でも飲んでいたんだろうか。口の中が甘く爽やかな風味に満ちていて、心地良い。ここの酒は絶品なんだな。せっかく一晩を過ごすのだから、もう一杯くらい飲んだっていいだろう。頭はすっきりとして、もう酒は抜けているようだし。
 働いている娘を呼んで、エルダーフラワーの酒を頼む。しかし、首を傾げられてしまった。

「うちには置いてないんです。この辺だとエルダーフラワーは、迷いの谷にしかないから。迷いの谷まで採りに行くのは危ないし……」

 ──そうなのか? ではこの口に広がる風味はなんなのだろう?
 仕方がない、では別の酒を……と思ったが、この感覚を他の酒で上書きしたくはなかった。しばし大切に、この感覚を味わっていたくて、優しい水だけを娘に頼む。
 何か己を突き動かす何かがあった気がするのだが、忘れてしまった。覚えのないエルダーフラワーのシロップに全て溶かして、飲み干してしまったのだろうか。年を取るというのは困ったものだ。だというのに不思議と気分は晴れやかで、娘が持ってきた水は、世界で一番おいしく感じられた。




スノウ/ホワイト クロエ/ラスティカ オズ/フィガロ リケ  オーエン ミスラ ムル ファウスト ネロ
ヒースクリフ シノ レノックス アーサー  カイン ルチル/ミチル シャイロック ブラッドリー
▲目次へ














ネロとモブ

 好きな店があった。雨の街の裏通りにある小さな料理屋で、いつも馴染みの客で賑わっている平民向けの店だった。学友と一緒に行ったり、予定が合わなければ一人で行ったりすることもあった。学校や家の用事の合間を縫っては出かけ、店主さんの料理を食べるのが僕にとっての数少ない娯楽だった。学校を卒業してからは外に出られる時間も減り、行ける機会も減ったが、なんとか時間を工面しては顔を出していた。
 しかしそれも、今日が最後になる。
 今日は僕の誕生日。一ヶ月も前からパーティの準備をしていた家を、学生の時の友人が祝ってくれるから少しだけ、と頼み込んで抜け出した。年が近く、昔から仲の良い御者に頼んで近くまで馬車を出してもらう。馬車の中で、朝からきっちりと整えられた身なりを少しだけ崩し、ジャケットを脱いで装飾品も外した。学生の時みたいに。
 僕は今日、成人を迎える。最初のお酒は、ここで飲みたいと──店主さんに選んでもらいたいと思っていた。


 *


「そりゃあ光栄だ。せっかくだから、いい酒を出すよ。成人おめでとう」

 店に来た趣旨を伝えれば、店主さんはそう言って笑ってくれた。僕が初めて友人と店に入った五年前から、変わらない笑顔だった。最初は互いに客と店主の関係でしかなかったけれど、何度か通ううちに好きな味を覚えてくれて、どんな料理を頼んでも好みの味にアレンジしてくれるようになった。僕のための場所ではないのに、僕のために作ってくれるのが嬉しくて、料理の感想を伝えるようになって……。家が息苦しい僕にとって、僕という個人を尊重してくれるこの店は、かけがえのない場所だったのだ。
 やがて前に出されたのは、明るく澄んだ琥珀色のお酒だった。受け取るとふんわりと芳醇な匂いが鼻をくすぐる。出来立てのジャムのように甘く、なのに深みのある大人の匂い。父様がよく飲んでいるから知っている、これは白ワインだ。
 サービスね、と言って一緒にチーズとドライフルーツも出してくれる。感謝と一緒に受け取ると、その向こうで店主さんも小さなグラスに赤ワインを注いでいた。ごつごつした料理人の手でそのグラスをつまみ、そっとこちらに差し出してくる。

「せっかくだからな。ちょっとだけ、乾杯」

 悪戯みたいに口をニッとあげてくれる。友人と内緒話をするような気安さと特別感に、思わずふっと笑いが零れた。作法もわからないままにグラスを掲げると、こつ、と店主さんから優しく鳴らしてくれた。
 その芳醇な香りを少しだけ楽しんでから、そっと口をつけ、グラスを傾ける。五感を痺れさせるような酔いの香りで、体中が満たされる。待ち焦がれた、初めての酒だった。
 琥珀色が舌に触れた瞬間、幸福感のある甘さが身体を満たす。砂糖をまぶしたドライフルーツの中に飛び込んだかのような甘い香りが、全身に広がった。その中でぴりぴりと喉を焼く感触が不思議と心地良い。ふわ、と花畑を飛ぶような温かい感覚が全身を包んで、まるで幸せな魔法にかかったみたいだった。
 お酒は苦く辛いもの、それを楽しめる大人だけが飲めるもの。そんなイメージがすべて吹き飛んでいった。その驚きが表情に出ていたのか、店主さんは嬉しそうに微笑んでいた。初めてチョコレートを食べる子を見守る親みたいで、なんだかこっちが気恥ずかしい。
「特別に甘いワインなんだ、それ。デザートワインとも言うくらいでさ。美味しいだろ?」
「はい、とても……こんなに甘いワインもあるんですね。辛口って書いてあるのが多いから、もっときついのかと思ってました」
「最初なんだから、酒は美味いって覚えて帰ってもらいたいしさ。大人の味は、これからどんどん知る機会があるよ」
 ……こういう店主さんの気遣いに、今まで何度も助けられてきた。落ち込んだ時も、いいことがあった時も、こうやって何も言わずとも寄り添ってくれていた。
 だけど、そんな店主さんに伝えなければならないことがある。僕はグラスを置いた。かたん、という音が空しく響いて、寂しかった。

「店主さん。……せっかくお酒を飲めるようになったんですが、もう、ここには来られないんです」

 視界の中でワインがゆらゆら揺れていた。店主さんの顔を見ることができなかった。あんなに嬉しそうだった人は、今はどんな表情をしているんだろう。それを知るのも、自分のくだらなくも重たい決意を伝えるのも、本当は怖かった。だけど、今日は確かに、最後なのだから。

「……結婚して、領地に戻るんです。父の決めた相手と。学校に行くのも、学ぶことも、全て父が決めてきました。だからせめて……最初に飲むお酒くらいは、自分で決めたかった」

 最初にこの店に入ったのは、友人たちとの興味本位。平民の間で人気の店があると聞いて、平民の振りをして行ったのだ。それからも、そして今も、貴族らしさをなるべく削いで店に来ていた。他のお客さんに、何より店主さんに威圧感を与えたくなくて。僕はこの通り、一人では何もできないちっぽけな人間だったから。

「でも、願いが叶いました。おいしいお酒を選んでくれて、ありがとうございます。これで悔いなく領地に戻れます」

 今日、首都の別邸で成人祝いのパーティーをしたら、明日には父の治める領地に戻る。そこで今度は、一度しか会ったことのない婚約者との結婚準備が始まるのだ。首都に来る機会はこれからもあるけれど、妻がいればきっと、こんな風に平民の店に来ることなんてできない。だから、ここでお酒を飲むのは最後。だとしても、最初はここが良かった。
 最初の酒を選んでほしいだなんて我儘を言いながら、一方的に終わりを告げる。なんて身勝手なことをしているのだろうと、自分でも思う。だから顔があげられなかった。店主さんに軽蔑されたくもなかったし、落胆の顔も見たくなかった。
 だけど、俯いたままの頭に、優しい声が降ってくる。

「……カトラリーの使い方が綺麗だから、いいとこの子なんだろうとは思ってたよ」

 その声色がこの人の料理のように温かくて、思わず顔を上げてしまった。ほんの僅かに残った赤ワインをグラスの中で揺らしながら、夕焼け色の瞳がこちらをじっと見つめている。

「自分で選んだ人生で苦しい思いをすることもある。誰かに決められた人生でも、心から幸せでいられることもある。だから、もう来られないだなんて言うなよ」

 包み込むような瞳を見ていると、本当の夕焼けを見た時みたいに泣き出してしまいたくなる。咄嗟に唇を噛んだけれど、きっと店主さんにはばれている。

「もし気の合うお嬢さんだったら、連れて来ればいい。一生添い遂げる相手なら気が合うに越したことはないし、そう在ろうとするのは悪いようにはならないんじゃねえかな。もちろん、負担にならなければ、だけど」

 グラスを持っていない手が伸びてきて、僕の頭に触れる。店主さんの手は頭を包み込んでしまいそうなほど大きかった。がしがしと撫でる動きは大雑把なのに、我慢していたはずの涙が勝手に溢れて止まらない。情けない僕の顔を見て、店主さんはどこか安心したように笑った。まるで、僕が小さい時の父さんみたいだった。

「だって、この店を選んだのは今日だけじゃない。友達とじゃなく、一人だって、選んでここに来てただろ?」

 そうだった。全てを両親が選んできた僕だけど、そんな中でも時間を作って、どうにかここに足を運んでいたのは自分の意志だ。今日が最初で最後だなんて思っていたのは、きっと自分だけだった。
 だからきっと、これからも選べる。どんな領地を営むか、婚約者とどういう関係を築くか、妻とどんな店に行くか。
 選んで、築いて、作り上げていける。頭を撫でる大きな手が、それを後押ししてくれている気がした。


 *


 妻はどんな顔をするだろうと心配だったが、意外なことに平民の服を纏っては「あなたの好きな場所も、民の気持ちも知ることができる素敵な機会ね」と言って嫌な顔もせず笑っていた。気が優しく領民に心を尽くす、僕には勿体ない素晴らしい人だった。
 王子殿下の誕生日パーティーに呼ばれた翌日。首都の別邸に泊まった僕たちは、僕が最初の酒を飲んだ店に一緒に行くことにした。平民向けの店だから話をする勇気が出るまで時間がかかったのだが、思い切って話すと妻は二つ返事で了承してくれた。

「いつか連れてきたら、と言ってくださったのでしょう? じゃあ、約束には応えないと!」

 記憶もあやふやなところがあったので、多少の脚色はあった気もするが、店主さんとのやりとりを伝えると妻ははしゃぎながら支度を進めていた。出来る限り飾らないで、という注文を受けた侍女は、折角首都でのお出かけだというのにと泣いていた。
 近くまでは馬車で行き、目立たないところに馬車を止めて、二人で歩いてその場所に向かった。数年の時間が空いていても、何度も通った場所を忘れはしない。
 しかし、そこはもぬけの殻だった。
 店の外装も、中のカウンターキッチンもそのままだから、あの店であったことは間違いない。だけど、そこには何もなかった。調理用具も、椅子も、あの店主さんも。
 呆然と立ち尽くす僕たちに気付いた人が、こっそりと話しかけてくれる。ここにあった店でしたら、数か月前に閉店しましたよ。

「残念だわ、あなたがずっと話していたから、食べてみたいと思っていたのに。……どんな方だったの?」

 とぼとぼと馬車への道を歩きながら、妻が落胆の声で尋ねる。僕だって、妻にあの人の料理を食べてみてほしかった。同じような落胆を抱えながら、僕は空を見上げた。

「そうだな……。いつでも僕の好きなものを出してくれて、欲しい言葉をくれて……でも、僕は連れて来ればいいっていったのに、こんな風に消えちゃうなんて」

 空は薄曇りで、あの人の髪の色を思い出す。きっと店を畳んだのも、やむにやまれぬ理由があったんだろう。だけど、だけど僕は。貰ったものの方がずっとずっと大きいのに、落胆する妻の隣で、思わず身勝手な恨み節を呟いた。

「まるで、魔法使いみたいなひとだったな」




スノウ/ホワイト クロエ/ラスティカ オズ/フィガロ リケ  オーエン ミスラ ムル ファウスト ネロ
ヒースクリフ シノ レノックス アーサー  カイン ルチル/ミチル シャイロック ブラッドリー
▲目次へ














魔法みたいな恋だった

ヒースクリフとモブ

 差し出されたお父様の手に、自分の手を重ねる。お父様の手は微かに震えていて、私は笑ってしまいそうになった。大丈夫ですと何度も申し上げたのに、当人でもないお父様が震えていらっしゃるなんて。
 お父様の手に引かれ、見られていることを意識しながら馬車を下りる。そこにあるのは、自然の要塞に囲まれたブランシェット城だ。
 名門ブランシェット、その跡継ぎのヒースクリフ様。見目麗しく才能に溢れるご子息の、唯一の欠点。私たち人間が忌避する魔法使いであること。
 だけど私は、そんなことはどうだっていい。貴族の女にとって、結婚は家門のためのもの。中級貴族の私の家がブランシェットと婚姻関係を結べば、お父様の発言力も強くなる。ブランシェットは王族に目をつけられることもなく、良い立ち位置で在り続けられる。そして、身分が下の私たちは捧げものも忘れない。ブランシェットが持つ高い技術力が遺憾なく発揮されるために懐に持つのは、良質な銀の流通に関する契約書。
 これを携えて、私はこれから、ブランシェットのご子息と見合いをする。

 *

「……本当に、お前はいいの?」

 これはほんの数刻前のこと。馬車の中で、お母様は何度目かわからない質問を私に投げかけた。その隣で、お父様も情けないくらいに眉を下げている。いつもは厳格な家の主であるお父様はどこへいったのかしら。困った顔をしたいのは私の方だ。

「ブランシェットは名門で、跡継ぎのヒースクリフ様も素晴らしい方だ。だが……」
「もう、お父様、お母様!」

 お二人がなんと言ったって、これから私はブランシェットのご子息と見合いをする。親同士で婚姻を決定することも貴族にはよくあるけれど、見合いを経るのはブランシェットのご両親の意向だそう。
 見合いが決まってから、お父様もお母様もずっとこんな感じ。見合いをするのも、上手くいったらその後結婚するのも、お父様でもお母様でもないのに。

「心配なさらないでと言ったでしょう? 貴族の女にとって、結婚は家門のためのもの。相手が魔法使いでも関係ないわ」

 家の跡継ぎはお兄様。お姉様は下級貴族の長男と恋愛結婚。私がブランシェットの女主人になれば、中級貴族であるお父様やお兄様は発言権が強くなる。ブランシェットは慎重だから、婚姻相手としては私の家くらいがちょうど良いと感じるだろう。それに、魔法使いだからと忌避するご令嬢も多い中、ここで婚姻を結べればきっと互いにとって利益のあるものになる。
 昔から、私は恋愛に興味はなかった。ご令嬢たちの間で流行る恋愛小説も、社交のために読みはしたけれど、それよりは経済や政治について学ぶ方が楽しかった。だから。

「幸せな結婚など望んでおりません。私の望みは家が安泰であること、それだけです。そのために必ず、婚約を結んでまいります」

 そう両親に改めて告げたところで馬車が止まり、御者が到着を告げる。
 馬車の扉が開き、先に両親が下りて、お父様が私に手を差し出す。その手を取って、私は馬車を下りた。
 私たちを出迎えてくれたのは、ブランシェットの執事と侍女、そして領主様と奥様。その真ん中に立つのが──ヒースクリフ様。
 陽光を束ねた金色の髪に、美しい夏の空のような眼差し。柔らかな微笑みはまるで美術品のように美しく、だけれどどこか、今にも崩れそうなほど脆く儚い。話に聞いていたよりずっと美しく、そして、なんてお優しい──。
 思わず見惚れかけて、我に返る。この日のために仕立てたドレスの裾を持ち上げ、私は膝を曲げた。

「ブランシェット家の皆様。此度は席を設けていただき、感謝申し上げます。わたくしは――」

 名乗り、頭を下げたところで、ヒースクリフ様が穏やかな足取りで歩み寄ってくる。手を差し出された気配に、そっと顔を上げた。

「初めまして、ヒースクリフです。ブランシェット城へようこそ。もし良ければ、私にご案内させてください」

 優しく穏やかで、だけど緊張の見える面持ち。魔法使いはいい加減で嘘つきだと教わってきたけれど、とてもそうは思えなかった。私はその手を取る。そのお姿と違い、手はタコや豆の痕だらけで、ああ、職人気質のブランシェットの方なのだと実感する。
 私は貴族の女。家のために婚姻を結ぶ者。根拠のない自信と確信めいた予感が、願いに似た決意へと変わっていく。
 私は魔法使いの妻になる。




スノウ/ホワイト クロエ/ラスティカ オズ/フィガロ リケ  オーエン ミスラ ムル ファウスト ネロ
ヒースクリフ シノ レノックス アーサー  カイン ルチル/ミチル シャイロック ブラッドリー
▲目次へ














シノとモブ

「ブランシェットの従者、シノだ。よろしく頼む」
「シノ、敬語! まだこの方は他の家のお嬢様なんだから……すみません、幼馴染みたいなものなので、昔からこんな感じなんです。不躾な物言いをお許しください……!」

 婚約が決まってから最初にブランシェット城を訪ねた時、黒髪の青年からそんな挨拶を受けた。
 従者と思えぬ物言いに驚く前に、前回はあれだけ穏やかだったヒースクリフ様が、怒ったり焦ったりと表情をくるくる変えるので──無礼ながら、私は思わず笑ってしまったのだった。
 挨拶を受けたならば、返さなければ。ドレスの裾を引きながら名前を告げた。前回お会いした時に、シノのことは聞いていた。同じ魔法使いである従者がいて、幼馴染のような存在なのだと。その話を聞いて、とても安堵したのを覚えている。魔法使いを見る目が厳しい東の国で、優しくて穏やかなこの人に寄り添う存在がいるのだと。
 シノは私の挨拶に「ああ」というだけで、すぐにヒースクリフ様の方を見た。口がへの字に曲がっていて、見るからに不満をぶつける気だった。

「ヒースに敬語を使わないのに奥様には敬語を使うのか? 領主になるのはヒースなのに?」
「本来なら俺にも敬語だろ、いや、もう敬語を使われたら困るけどさ……俺が特別なだけ。父様と母様にするように接するべきだよ」

 どうやら私への態度に関しての言い争いのようなので、私にも口を出す権利はあると判断する。繊細で穏やかな人に寄り添う従者、というイメージはすぐに崩れ去った。だけど、ヒースクリフ様の表情がくるくる万華鏡のように変わる様子を見ていると、私がたまらなく嬉しくなる。この方がこんなに表情を出せるくらい、信頼できる存在なのだとわかるから。

「ヒースクリフ様のご友人なのですね。私にもそのように接してくださると嬉しいわ。ブランシェットやヒースクリフ様、魔法使いのことを、友人としていろいろ教えてもらいたいの」
「ほら。こう言ってる」
「……寛大なお心をありがとうございます……」

 そう言って、ヒースクリフ様が大きな溜息を吐く。呆れや安堵がぎゅうぎゅうに詰まったような溜息だった。私のこの態度も、もしかして呆れさせてしまったかしら。
 すると、シノの切れ長の瞳が私をキッと睨むように見た。まるでルビーのように鮮烈で輝かしい赤の瞳だった。射抜かれるような眼差しに、心臓が跳ねる。そのまま眼差しで殺されてしまうかと思った。それくらいに、強い瞳だった。

「教える前にまず。聞くことがある」

 その目と声から感じるのは敵意。彼は私を疑っているのだとすぐにわかる。貴族の陰謀が渦巻く社交界でも、こんな風に貫くような敵意は向けられたことがない。恐怖に詰まりかけた喉を、唾を飲み込んでなんとか解す。問われるのなら、どんな問いであれ返さなければならない。それが、良い貴族の流儀だから。シノは眼差しをほんの僅かも逸らすことなく、目線と同じ鋭い声で問う。

「魔法使いをどう思っている?」

 ──また、息が詰まる。その問いは、どこか痛ましかった。東の国の魔法使いとして生まれた彼とその主が、今までどんな目線に晒され、どんな扱いを受けてきたのかを物語る一言だった。
 私も今までは無意識に、彼らを蝕む世界に立っていたのだろう。無関心は、ある意味刃でもあるから。
 だけどもう、そう在りたくはない。いずれ魔法使いの妻になる者として、そして、ブランシェット領を背負う者として。私は、心のままを言葉にする。

「お恥ずかしながら、初めて出会った魔法使いがヒースクリフ様なのです。それまで伝え聞く魔法使いの話は、伝承のように感じていました。このお話がなければ、魔法使いに関わることもないと思っておりましたから」

 嘘や誤魔化しは意味をなさない。どれだけ鋭い眼差しに射抜かれようと、いいえ、射抜かれるからこそ、本当のことだけを口にする。

「ヒースクリフ様と出会い、聞いていた存在とは違うと感じました。偉大な学者、ムル・ハートの著作を読みもしましたが──お二人の言葉と声で、魔法使いについて知っていきたいと思います。無知な身ですが、どうか、お許しくださるでしょうか」

 シノの目元が和らいでいく。私も思わず、口元が緩む。何もわからない未熟者の言葉だったけれど、私を見る顔がずっと険しかったシノの表情が、ここでほぐれたのが嬉しい。
 私も共に歩めるかしら。長すぎる時を生きる魔法使いにとっては、私の一生など、いつか瞬きのようなものになるとしても。
 シノは私の足元に傅き、手を優しく取った。知らぬ間に手は緊張で冷え切っていて、シノの手が熱いくらいだった。今までずっと従者らしからぬ態度だった彼が、今は私を見上げている。繊細な作りの照明を浴びて、瞳のルビーがきらきら輝いている。

「きっとオレは、そういう言葉を東の国の人間から聞きたかった」

 そしてそっと、彼は私の手の甲に口づけた。騎士の礼を示す、忠誠の口づけだった。

「ブランシェットの新たなる花。あなたがヒースに誠実である限り、あなたを守ると誓おう」

 ──魔法使いは約束をしない。誓いを立てない。
 だけど彼は今、誓いを立てた。私がヒースクリフ様に誠実である限り、という条件付きではあれ。
 それならば私も、その忠誠に応えるべきだ。

「ありがとう、シノ。私も誓います。ブランシェットとヒースクリフ様の名に恥じない花になることを」

 人間には約束や誓いを破る代償がないとしても。私たちの生きる時間は大きく違うのだとしても。こうして同じ時を生きる奇跡に、誠実を以って尽くしたい。
 長すぎる時を生きる魔法使いにとっては、私の一生など、いつか瞬きのようなものになるとしても──いつか遠い未来の中で、彼らが懐かしむ瞬きで在れるように。


 *


 ヒースクリフ様が席を外した折、シノはもう一度私を見た。今度向けられたのは敵意ではなく関心だったので、緊張せずに彼の言葉を待つことができた。

「もう一つ聞いておくことがあったんだ」
「なんでしょう?」
「あんたはどうしてヒースと結婚しようと思ったんだ?」
「そうですね、お会いするまでは最初は家のためと思いましたけれど、初めてお会いした時に、ヒースクリフ様のお優しい物腰と控えめな姿に心惹かれたのです。貴族の男性なんて、自分を誇示することしか考えてない人が多いですから。もちろん麗しい姿に目を奪われなかったと言えば嘘にはなりますが……。最初にお会いした時私をエスコートしてくださって、でも緊張していらしたのか手がとても冷えていてかわいらしかったのですよ。なのに、慣れない土地に来た私のことをずっと気遣ってくれていたのです。こんなに素敵でお優しいのに自信がなさそうなところがもどかしくって、微力な身ではございますが、私が支えてさしあげたいと思ったのもあり……」
「わかる。すごくわかるぞ。あんた、良い目をしてるじゃないか」
「シノにとっての魅力もお聞きして良いかしら?」
「だめだ、ヒースが戻ってくるまでに語り切れる気がしない。お前がちゃんと輿入れしてきたらいくらでも時間があるからな、なんでも話してやる」
「まあ。楽しみにしていますね!」
「あとあんたが本を読んだっていうムルも知ってる。今度紹介してやるよ」
「まあ、嬉しい! 魔法使いに関する話だけじゃなくて、私、あの方が書かれた“ギャンブルから見る経済”も読んでいまして……!」




スノウ/ホワイト クロエ/ラスティカ オズ/フィガロ リケ  オーエン ミスラ ムル ファウスト ネロ
ヒースクリフ シノ レノックス アーサー  カイン ルチル/ミチル シャイロック ブラッドリー
▲目次へ














レノックスとモブ

 周りのみんなが笑っている。歓声を飛ばしている。手を叩いている。そんな賑やかで温かな空間の中で、私はひとりのひとから目を離せなかった。
 いつも寡黙だったひと。物静かだけど、頼りがいのある背中。大きくて器用な手。優しい声。でも時折何かを想うように、何もない遠くを見る寂しい眼差し。
 そのひとが自分の手だけで木の実を割って、歓声の中で投げキスまでしている。胸を張って、堂々と。もうその眼差しに、何かを探すような揺らぎはない。
 ──私の好きな人が、こんなにも、笑っている。
 嬉しいはずなのに、私はひとりで泣いていた。笑っている振りをして、ハンカチで顔を覆う。
 魔法使いは、ずっとずっと、変わらないんだと思っていた。

 *

 恋に落ちた時のことを、私は今でも覚えている。
 幼かったころ、確か四つくらいのとき。街の近くにある花畑に行きたくて、夕方だというのに一人で街を抜け出した。案の定、あっという間に暗くなって、街が見えなくなって泣いていた私を箒で迎えに来てくれたのがレノさんだった。
 大丈夫か、と魔法の灯りをつけてくれた時に見えた顔が、本当に心配そうだったのを覚えている。レノさんの表情はあまり動くことがないから、なんだか珍しいものを見た気がした。けど、そんなことをしんみり思う間もなく、幼かった私は張り詰めていた糸がぷっつり切れて大泣きしたのだった。
 一度レノさんに抱っこしてもらったら、もうそこから離れるのが怖くて怖くて、必死に首にしがみついていた。泣いて離れない子どもなんて厄介だったでしょうけど、レノさんは私の背中を擦りながら、ずっと「大丈夫」と繰り返してくれていた。一言ひとこと、丁寧に、真摯に。わあわあ泣きわめく私が、安心できるように。
 私が泣き止むと、抱っこしたまま、片手で箒を操って雲の街の家まで送り届けてくれた。
 それが、一番古い記憶。その時からずっと、レノさんのことが大好きだった。両親も口癖のように「レノックスみたいな夫をもらえ」なんて言っていたし、私もそれがいいなと思っていた。みたいな、じゃなくて、本人だったら一番いいのに。
 魔法使いは人間よりずっと長く生きていて、ある時身体の成長が止まるというのは、南の国にいればみんな知ることだった。だからレノさんはいつまでも変わらなかった。両親が少しずつ老いていき、私の背丈が伸びても。夕方に花畑に行くなんてことをしなくなっても、迷子にならなくなっても。レノさんはずっとあのまま、寡黙で、背中が大きくて、手つきが器用で、声は優しかった。時折何かを想うように、何もない遠くを見る寂しい眼差しも、ずっと変わらなかった。
 だけど。ほんの数か月会わなかっただけなのに、サーカスを披露してくれたレノさんは変わっていた。
 変わらないって、思っていたのに。

 *

 一人だけ泣いているのが嫌で恥ずかしくって、木の裏に座り込んでこっそりハンカチを濡らす。そんな時に近づいてくる人影は、誰よりも大きいからすぐにわかる。

「大丈夫か。体調でも悪いのか?」

 ……ああ、あの時とおんなじだ。私は人間だから、変わったと思っていたのに。
 無視もできなくて、振り返る。私の泣き腫らした目にも、動じることはない。きっとサーカスを披露しながら、私が泣くのを見ていたんだろう。人の好意には鈍感なのに、そういうところはすぐに気付く、優しい人だから。私はがんばって、笑ってみせる。だけど無理した分だけ、余計に涙が溢れ出た。
 レノさんはそっと私の隣に腰を下ろして、背中を擦ってくれた。その優しさも温かさも何も変わっていないのに、このひとは確かに変わったのだ。変わらないままの大きな手の優しさが痛くって、小さい頃なら泣き止んだのに、今は涙が止まらない。それでもレノさんはずっと私の背を撫でてくれていた。
 目も鼻も頬も痛くなるくらい泣いて、少しずつ、その手の優しさに向き合えるようになってきて。私はやっと声を出した。

「……レノさん、変わりましたよね。ずっと優しいままだけど、何か、無くしたものを見つけたみたいな気がします」

 きっと酷い顔だから、レノさんの顔は見られないままだった。だから、どんな顔をしたのかわからない。だけど隣のその人が、ふ、と笑い声を零したのが聞こえた。

「そうかもしれない。賢者の魔法使いに選ばれて、ずっと会いたかったひとに会えたんだ」

 ──ああ。すとん、と何かが落ちたように納得する。あの遠くを見る眼差しは、ずっと、そのひとを探していたんだ。
 人間よりずっと長い時を生きる、魔法使いであるレノさんは、一体どれだけの間、そのひとを探していたんだろう。のどかな南の国に居着くくらい、辛く長い旅だったんだろうと思う。
 あの寂しい眼差しに、私は何を思っていたんだろう。レノさんの寂しさに気付きながらもずっと、それさえも変わらないんだろうと意味もなく思っていた。そんな哀愁さえ、あのひとの魅力だって。あれだけ優しいレノさんに対して、私はなんて身勝手だったんだろう。
 今度は自分の小ささに泣き出したくなる。それをぐっと飲みこんで、口を開いた。

「……レノさん、覚えてますか? 私、小さい頃迷子になって、レノさんに助けてもらったの」
「ああ、あの時はまだ小さかったな。今は……ルチルとミチルの間だったな。十八か?」
「そうです。あの時からずっと、レノさんは変わらないなあって思ってたのに」

 自分の身勝手さと勘違いに向き合うように、正すように、言葉を探した。

「……変わるんですね。魔法使いも」
「ああ」

 そうやって頷いてくれた声があまりに優しくて、思わず隣を見上げた。自分がどれだけひどい顔かなんて、考える間もなかった。
 レノさんはずっと、私を見ていた。迷いのない穏やかな眼差しを、あの時から背が伸びたけど、あの時みたいに泣きじゃくる女の子に向けている。

「人も物も、魔法使いも。一緒に変わっていけるんだ」

 ──呼吸が一瞬、止まった。
 ああ、そうだ。私もちゃんと、変わらなきゃ。
 いつまでも変わらないひとに勝手に憧れて、勝手に傷ついた私から。
 私が行きたかった花畑みたいに、日々色を変える空みたいに、ささやかな変化に喜んで、祝福できる私に。


 *


 お別れ会を終えた私は、月明かりの下、ナイフを持って立っていた。
 特に意味もなく伸ばしていた髪を、首のあたりでひっつかむ。そして自分の拳の上に、一思いにナイフを走らせた。
 髪が束になって切れる音は、耳のすぐ傍だからすごく大きく聞こえて、思っていたよりずっと怖い。私だけの何かが無慈悲に奪われていく感覚が生々しくて。だけど、もう後戻りはできない。一度切り始めたら、全てを切らないと。
 最後の一房まで断ち切って、髪を掴んでいた左手がぱっと勢いのままに離れると、私は右手のナイフを頭上に掲げる。走った後みたいに息が切れていて、心臓が早鐘を打っていた。でも、やった。やったのよ、私。月光を浴びたナイフはどこか恐ろしくて、何よりも頼もしく見えた。
 さようなら、私の、恋だと思っていた憧憬。
 最後の涙が月の光を吸いながら、落ちていった。




スノウ/ホワイト クロエ/ラスティカ オズ/フィガロ リケ  オーエン ミスラ ムル ファウスト ネロ
ヒースクリフ シノ レノックス アーサー  カイン ルチル/ミチル シャイロック ブラッドリー
▲目次へ














アーサーとモブ

 あのお方の城に明かりが灯った。トトが村に帰ってきた。怪我はなく、犬も一緒に、そして、魔法使いも一緒に。
 村が騒ぎになるような事件がほとんど同時に起こって、みんなも私も混乱していたのに、トトってば。そんな最中に心臓が止まりそうなことを言うのはやめてほしい。
 雪を纏ったような白銀の髪、短い夏の青空の瞳。寒さですぐ赤くなる頬、笑った時のかわいい顔。
 ずっと待っていた、会いたかったひとが、そこにいるのに。

「ニーナ、お前の言っていたことは本当だった。アーサーは、中央の王子様だったんだと!」

 愕然とする。言葉も出ない。いやになるくらいの説得力で、その事実をすっと呑み込めてしまって。
 だって。だってそんなの、あんまりだ。
 私だけの王子様だって、思っていたのに。

 *

 家にはたった一冊だけ、絵本があった。貧しい中で慎ましく、ひたむきに過ごしている女の子。ある日突然王子様に会って、恋に落ちて、お姫様になる話。おばあちゃんが子どもの頃からある絵本で、ページが破れたり取れてしまったりしたけれど、そうなるたび大事に糊で貼り合わせて、毎日夢中になって読んだ。
 だから、私もお姫様になれるって思っていた。いつかきっとこの小さな村にも王子様が来て、私をお姫様にしてくれるって。
 ……そんな夢を見ていた時だ。空飛ぶ馬車に乗って、銀色の髪の男の子がやってくるようになったのは。
 山向こうのお城から、大きな樽を抱えた馬車で飛んでくる、魔法使いの男の子。あの方の使いだといって、村で買い物をして、年の近い私やトトと遊んで、大人から果物を貰って、馬車と一緒にお城へ帰っていく。この村を守護してくださる方の使いだというのに、偉ぶることはまったくない、不思議な男の子だった。
 男の子──アーサーは、貢がれるんじゃなく、当たり前みたいに買い物をした。私たちと遊ぶ時もいつだって全力。負けて拗ねることも怒ることもなく、ただ悔しがって「もう一回」と言う。勝った時には跳ねて、チームメイトとハグしながら喜んでいた。魔法使いの弟子だなんて忘れてしまうくらい、等身大だった。絵本のような金髪の王子様ではなかったけれど、銀色の髪だってじゅうぶんに素敵。ちいさな私はあっという間に心を奪われた。
 ああ、私の王子様は、きっとこの人なんだ!
 そんな夢を見た。いつか一人前の魔法使いになったら、私を迎えに来てくださる。本物の王子様じゃなくて良い、私だけの王子様。だから私は、この人だけのお姫様になる。
 ──だけど、数年に渡る吹雪が吹き荒れ始めたのと同時に、アーサーは村に来なくなった。
 止まない吹雪の中、家族や村のみんなと協力してじっと耐え忍ぶ中で、目を覚ます時が来たことを薄々感じていた。私も年を重ねて、夢見心地だけではいられなくなっていたから。
 アーサーはもう来ない。こんなに厳しい天候の中、守護してくださる方のお使いが来ないのだもの。
 そもそもこんな最果ての村なんかに、王子様が来るはずがなかった。私はただの村娘。お姫様になんて、なれっこないんだって。
 ──そんな矢先だったのだ。いつしか吹雪が収まって、気付いた時にはあの方のお城に火が灯らなくなっていて。トトが決死の冒険に出た末、魔法使いと一緒に──アーサーと一緒に村に帰ってきたのは。

「ニーナ! 素敵な女性になったな!」

 トトから話を聞いた直後、心の準備ができないまま、アーサーは私を見かけて駆け寄ってくる。乾燥しているこの辺りじゃ信じられないくらい、髪も肌も艶めいていた。お城にいた頃だって、ここまで綺麗じゃなかっただろう。質の良いものを使って、丁寧に手入れをされているのがわかって、トトの言葉が嘘でも誤魔化しでも騙されてるわけでもないことがわかって、ずきずきと胸が痛い。心臓の軋む音を聞きながら、私はなるべく笑ってみせた。

「お久しぶり、アーサー。……トトから聞いて驚いたよ。中央の王子様だったなんて」
「ああ、ニーナは昔、私を王子様のようだと言ってくれていたな」

 ──そうだったっけ。そうだったかもしれない。アーサーを王子様だと思ったのは、想いを秘めるなんてことを知るよりも前だったから。
 なるべく自然にとは思っても、感情を隠すなんていつもはしないから、きっと笑顔は下手くそだった。ぎこちない言葉と笑顔に、アーサーは何を思ったのか、困ったように眉を下げる。

「あの時はもう王子じゃないと思っていたから、肯定できなかった。騙していたようになってすまない」

 その言葉に胸がきゅうと締まる。中央の王子様がどうして北の最果てにいたのか、どうして今は再び王子になってるのか、私は何もわからない。だけど、それは決してアーサーが謝ることじゃない。申し訳なさそうな優しい瞳を見ながら、私は一つ、決意をする。
 目を覚ます時が来たことを感じていた。
 本物の中央の王子様。魔法使いの弟子で、今は世界を守る賢者様の魔法使い。こんな人がもし村娘をお姫様にするなら、きっと今しかない。
 だけど、わかっている。目の前にいる王子様は、ここからお姫様を連れ出すことはない。こんな真っ直ぐな凛とした眼差しは、恋に落ちた瞳じゃないってこと。
 だから私は、目を覚ます。夢にさよならをする。

「アーサー。あのね、ずっと言いたいことがあったの。アーサーは困るだろうけど、どうか一思いに断って」

 一人じゃ起きられない、まだまだ幼い私でごめんね。きょと、と目を丸くするアーサーを見ながら、胸の中で静かに謝る。

 昔からずっと、あなたのお姫様になりたかった。
 中央の王子様でも、魔法使いの弟子でもない。アーサー・グランヴェル、あなたの。




スノウ/ホワイト クロエ/ラスティカ オズ/フィガロ リケ  オーエン ミスラ ムル ファウスト ネロ
ヒースクリフ シノ レノックス アーサー  カイン ルチル/ミチル シャイロック ブラッドリー
▲目次へ














魔法使いの邂逅

カインとモブ

 魔力が衰えたクララの後に新しく召喚されたのは、かつて騎士団長だった子で、魔法使いであることをしばらく隠していたらしい。左右の目の色が違うのと、その色合いには覚えがあったから、まさかと思ったらやっぱり。オーエンの左目の主らしい。弱い魔法使いから奪ったなんて話はオーエンもしていたけど、その本人が賢者の魔法使いに選ばれるのだから、月というのは趣味が悪い。それに愛を語るムルも同じで。
 そして彼は、同じ魔法使いに目を奪われ、守ろうとした人間には迫害されても、これっぽちもひねくれたりしていなかった。前髪で左目を隠してはいるけど、魔法で色を変えたりすることもなく、そのままの色で笑っていた。その快活さは目を見張るものがあったけれど、反面、

「俺がおまえたちを守ってやる」

 なんてことをまるで挨拶のように言うので、妹は目を丸くしてからけらけらと腹を抱えて笑ったし、私は、

「そんなこと軽く言っては駄目よ!」

 と、思わず叱り飛ばしたのだった。


 *


「あっはは、そんなこともあったな。ご婦人方には喜ばれていた言葉だったのに、笑われるし叱られるから驚いた」
「全くもう。あなた、いつかそのまま約束しそうなんだもの。怖くて見てられないったら」

 大いなる厄災の襲来、前日。各地に散らばる賢者の魔法使いが集い、討伐前の宴を開いていた。南の魔法使いたちが料理を振舞い、ブラッドリーが端から野菜以外を平らげる。ミスラもオーエンもこういう時は顔を出して、好きなものばかりを貪るように食べ、それを双子が窘めているのが毎年の恒例。西の魔法使いたちが歌って踊り、私の妹もそれに混ざって、東の魔法使いたちは部屋の隅で静かに食事をしている。オズは不在。そんな中で私たちは、カインが召喚された日のことを話していた。
 あの日、初対面で叱り飛ばされたのにも関わらず、魔法舎に行って話をすれば私たちを守る話を必ずしていた。魔法を使い始めたばかりで、約束の重みも知らないでいたくせに。だけど話すうちに、誰かを守るということが彼の矜持なのだとわかってきた。若くして騎士団長になりながら、オーエンのせいでその任を剝奪された彼の、未練と憧憬と決意の矜持。だからそれを否定することはしたくない。

「あなたのその心持ちは素敵だけど、守る、だなんて曖昧な約束は駄目よ。あなたが常に一緒にいる相手ならまだしも、そういうわけにはいかないでしょう? 素知らぬところで命を落としたりしたら、あなたが魔力を失うことになるんだから」
「それは困るな、教えてくれてありがとう。助かるよ」

 心の底からの敬意で微笑む。忠告をした側としては、怯えたり神妙になったりしてほしいものだけど。でも、響いてないわけではないのだ。忠告を踏まえたうえで、それでも、と再び決意を口にする。

「あんたたちを守りたいのは本当だ。魔法使いとしては未熟だが、元騎士として。明日襲来する厄災からだって」

 私はあの時、軽く言うな、と叱ったけれど、彼のこの言葉は決して軽くないことを今は知っている。心の奥底から決意と自信をもって、私達を守ると口にする。
 それでも。今あの言葉を聞いたって、私はこの子を叱るだろう。
 力の強い魔法使いは、自分の死期を予感できる。私は決して強いわけではないから、はっきりとはわからない。ただ長く生きているだけはあって、燻るような胸のざわめきがあり、それが警鐘であることに気付いている。妹も同じことを言っていた。
 私たちは先が長くない。それどころかきっと、明日にでも。
 彼は、私たちを守れない。

「──ねえ、カイン。あなたにはいつか、何かを守れなかった時が来るわ」

 あなたが思うより早く、という言葉は飲み込んだ。色の違う目が、はじめてやっと不安そうに揺らいだ。オーエンと同じ色なのに、全然違う動きをするのね。なんだかそれが小気味よくって、思わず口元が緩んだ。

「これからの言葉は、長く生きた魔女のお節介だと笑って。たとえ守れなかった時が来ても、それに折れず、今のあなたの道を歩き続けてほしいの。私、あなたのその目が好きだから」

 左右の違う目の色とか、そういう意味じゃないと、きっとカインにも伝わっている。そう、これは私のエゴだ。私の石であの子の瞳を閉ざしたくない。決意に傷をつけたくない。きっとお節介などなくたって、彼はそのようにするだろうけど、願いは口にしておきたかった。魔女として、魔法と共に在る者として。
 私たちが石になったなら、残される中央の魔法使いはオズとカイン。どうして中央として呼ばれたかもわからない魔王様と、まだこれからの未来がある若い魔法使いだ。だから、私たちのあとに召喚される中央の魔法使いも、どうか彼の決意と矜持を強固にする心強い魔法使いでありますよう。
 私の言葉に、揺れていた瞳がまた確かな光を宿していく。先程よりも強い焔が揺らめいている気がするのは、私の自意識過剰かしら。どうあれ、これから確かな無力感を味わう彼の目には、いつだってこれくらいの焔が宿っていてほしい。そんな願いをささやかに抱いたところで、彼が口にしたのは。

「お節介なんかじゃない。あんたにそう言われて嬉しいよ。だから、寂しそうな顔をするのはやめてくれ。あんたは一番、笑顔が似合うんだから」

 ──まったく。私があと五百年若かったら、放っておかなかったわ。




スノウ/ホワイト クロエ/ラスティカ オズ/フィガロ リケ  オーエン ミスラ ムル ファウスト ネロ
ヒースクリフ シノ レノックス アーサー  カイン ルチル/ミチル シャイロック ブラッドリー
▲目次へ














フローレス兄弟とモブ

 神酒の歓楽街では、月に一度、路上で小さなコンサートが開かれる。いいえ、傍から見ればコンサートとは呼べないのかもしれない。ただ一人の男が歌っている、それだけのこと。
 ステージもない。客席もない。だけど私にとってはとびきりのひととき。箒の上で、姿を隠して、誰にも邪魔されないで聴くの。私だけの特等席。
 ──だけど終わるとどうしようもなく寂しくて、その日は必ず、シャイロックのお店に行くことにしている。お酒で寂しさを紛らわせて、シャイロックの話術で不安から目を背けるのよ。
 シャイロックが中央の魔法舎で生活することになってから開店頻度はがくんと落ちて、行きたいときに閉まっているときも増えた。だけど、その日は明かりがついていたから、早足で店を訪れた。
 休業の日が続くようになっても、店主のシャイロックも、お洒落な内装も、居心地の良い雰囲気も何も変わらない。だけどその日はひとつ、いつもと違うことがあった。
 カウンターにいるのが、シャイロックだけじゃなかったこと。二人の年若い魔法使いが、どこか緊張した様子で私を迎え入れてくれたのだ。
 シャイロックが指し示したのは、その若い子たちの前の席だった。……背の高い子は、どこかで似たひとを見たことがある気がする。けど、うまく思い出せないままそこに腰かけ、シャイロックに視線を送った。

「あなたがカウンターに他人を入れるなんて珍しい。よっぽどお気に入りの子なの?」
「人聞きの悪いことを仰らないで。私と同じ、賢者の魔法使いの子たちですよ」

 ……ああ、この子たちも。魔力が強そうには見えないけど、魔法使いが何を基準に選ばれるかはムルにもまだ解き明かせていないようだものね。
 シャイロックが私を「常連のお客様なんですよ」と紹介してくれたので、名前を告げた。すると彼らも微笑んで、礼儀正しくお辞儀をする。

「南の魔法使いのルチルです。精一杯おもてなししますので、今日はよろしくお願いしますね」
「ミチルです。ルチル兄様の弟で、大魔女チレッタの息子です!」
「えっ!?」

 思わず大きな声が出てしまった。立ち上がりかけた身体はぐっと抑えたけど、驚きの声は自然に口から溢れていく。

「ち……チレッタの息子……!?」

 こんな大声を出してしまって、シャイロックが嫌な顔をしていないかしら、と思ったけど、彼はにこにこ笑っているだけだった。この笑顔、私が驚くのをわかっていたわね。
 大魔女チレッタって言ったら、一人しかいない。この酒場にもよく現れては、浴びるように酒を飲んでいた北の恐ろしい魔女。なんでも飲んで、なんでも食べて、何の話にでも楽しげに笑う、なのにその振舞いに下品さはない。だからといって油断して近付けば酔い潰される。……恥ずかしながら、私も一度潰されている。
 ──彼らが、そんな、チレッタの息子? 風の噂で彼女が石になったらしいと聞いた時も、箒から落ちそうなほど驚いたけれど。そもそも結婚していたことも、子どもがいたことも、その子がこんなに大きくなっていたことも、何もかも知らなかった。
 兄のルチルを見た時に既視感を覚えたのは、彼女だったのだ。言われてみれば、とてもよく似ている。だけどその柔らかで丁寧な物腰からは、チレッタの血を全く感じられなかった。それに、チレッタの傍らには、“あの”北のミスラがいたはずだった。

「……あの二人の間に生まれて、よくこんなに素直そうに……シャイロック、もしかしてあなたが育ての親?」
「ふふふ。混乱が混乱を呼ぶさまは愛らしいですね、ミチル」
「へっ!? そ、そうですね……?」

 趣味の悪い冗談に、ミチルは口では同意しながらも首を傾げていた。シャイロックが明らかに私の混乱を楽しんでいる隣で、ルチルは穏やかに口を開いた。

「私たちの父様は、人間だったんですよ。南の国で教師をしていました」

 ――その言葉は、雷で打ち抜かれたような衝撃だった。一度では飲み込めなくて、自分の言葉で反芻する。

「人間……? チレッタが、人間と……?」
「そうなのですよ、エレーナ」

 シャイロックが私の名前を呼んだ。もう彼は楽しんではいなかった。慈しみに満ちた微笑みで、私のことを見つめている。

「だから今日、二人に店の手伝いを頼んだんです。あなたがいらっしゃると思って」

 ──そういうこと。酒に酔った勢いで、シャイロックに打ち明けたこともあったかしら。
 月に一度開かれる、一人の男のコンサート。あの人の歌声を初めて聞いた時から、私は彼に恋をしている。
 名前も知らない。話したこともない。姿を見せたこともない。だってここは西の国、人間と魔法使いが憎悪し合う国。同じ街に住んでいても、私が姿を見せたらきっと彼は怯えてしまう。かといって、人間の振りをして会いに行くなど、騙すような真似もしたくはなかった。
 あの歌を聴けるだけで幸福なのよと自分に言い聞かせていたけれど、秘めれば秘めるほど気持ちは大きくなる。人間に恋をした魔法使いや魔女の話を聞いて、かわいそうにねえ、と他人事のように憐れんでいたのに。いっそ相手が花や風だったほうが良かった。相手が同じかたちをして、同じように話して、同じように動く。なのに、同じようには生きられないなんて。
 ──そうやって悲観しながら生きていたのに。あのチレッタも、人間に恋をしていた。恋をして、結ばれて、こんなにかわいい子どもまでもうけた。あのチレッタが。
 そんなの。──希望になってしまう。

「……ひとつ、聞いてもいいかしら。──あなたたちにとってチレッタは、どんな魔女だった?」

 私の問いに、ルチルとミチルは顔を見合わせる。だけどすぐに言葉もないまま微笑んで、揃って頷き合った。最初に口を開いたのは、ルチルだった。

「明るくて優しくて、笑顔のかわいい、とても素敵な魔女でしたよ」
「……ボクは、母様に会ったことがないんです。ボクを生んで、死んでしまったから。でもこうして母様のことを知っている魔法使いや魔女の方に会うと、素晴らしいひとだったんだなって、嬉しくなります」

 ああ、なんてかわいらしい。なんて幸せに満ちた顔で、チレッタのことを語るんだろう。言葉の事実はどうであれ。あの恐ろしい北の魔女が、こんないい子たちを生み、育てて、愛し、愛されているのなら。
 嫉妬にも近しい羨望を抱く。この西の国は、この子たちが生まれ育った南の国より、魔法使いと人間の共生は厳しい。それでも私、こんなに素敵なチレッタの愛を見たら。
 諦められなくなってしまう。
 私は銀貨を二枚、カウンターに差し出した。

「シャイロック、ごめんなさい、今日は酔うのはやめにするわ。一枚はこの子たちと出会わせてくれたあなたへのお礼、一枚はその子たちのチップにして」
「承知いたしました」
「えっ、でも……」
「大金ですよ……!? ボク達、こんなに受け取れません!」
「いいのよ」

 席を立ちながら、私はかわいい兄弟の方を見る。チレッタは北の魔女だ。貢がれることには慣れていた。なのにその息子たちが、銀貨一枚で慌てるのだから笑ってしまう。チレッタはどんな人と出会い、どんな恋に落ちたのかしら。
 彼らを見る私の目は自然と細くなり、口元が緩む。二人はシャイロックと私を交互に見て、落ち着きがない。だから私も、また口を開いた。

「気になるなら、祈ってくださる? 私、これから一人の人間のところに行くの。その時に──」

 この子たちと会わなければ、私はずっと膨れ上がる想いをどうすることもできずに泣いていた。今日、あの人の家を訪ねようとする気も起きなかった。いつまでもいつまでもみっともなく、西の魔女らしくもなく焦がれながら石になっていたかもしれない。
 だけど今日、私たちは出会えた。シャイロックに仕組まれたものだとしても、それは変わらない。

「あなた達のお母様のように、一歩を踏み出す勇気が出るように」

 店を出たら箒に乗って、街はずれにある彼の家へ。小さな声で歌の練習をする、その窓辺を叩いたら、彼はどんな顔をするだろう? 怯えるか、恐れるか、怒るか。西の国の人間だったら、そのあたりかしら。
 私たちは心で魔法を使う。私の心は、今はもう、あの人の歌で作られている。
 どんなに魔法への眼差しが厳しくても、私は今日、私の心で、あの人に触れるわ。
 きっといつか、あの北の恐ろしい魔女がそうしたように。




スノウ/ホワイト クロエ/ラスティカ オズ/フィガロ リケ  オーエン ミスラ ムル ファウスト ネロ
ヒースクリフ シノ レノックス アーサー  カイン ルチル/ミチル シャイロック ブラッドリー
▲目次へ














シャイロックとモブ

 魔道具の水晶玉に映るのは、活気のある酒場の中。棚のワイン瓶の配置にまでこだわられた、美しい酒場だった。カウンターにもテーブルにも魔法使いや魔女がちらちら座っていて、今日も変わらず盛況の様子。
 じっと覗いていると、カウンターにいる店主がちらりとこちらに目線をやって、指先から生み出した薔薇色の蝶々を飛ばした。これが合図。箒に乗っていた私は魔道具をしまい、そのまま降下して石畳に降り立つと、流れるようにその扉を叩いた。
 店主がわかりきった微笑みで「いらっしゃい」と迎え入れてくれる。こんばんはと挨拶だけは忘れずに、示されたカウンター席へ座ると、いつもの一言を叩きつける。

「あんな男、やめときなさいよ」

 シャイロック・ベネット。魔法使いが愛する酒場の店主。
 彼が執心するムル・ハートのことが、私は心底嫌いだった。


 *


 そんな日々を繰り返していた時だった。閉店間際にそっと、彼からの招待状をもらったのは。
 家に着いて、破れないよう魔法で封を開けた。入っていたのは、艶やかな花の匂いのする一筆箋。星の光を閉じ込めた夜色のインクで、日付と時間と場所が書かれていた。その日は毎月気まぐれに変わる、酒場の休日だった。
 私はとびきりのおめかしをした。新しいドレスを仕立て、前の日には星露草の葉から集めた朝露を肌に塗った。その日は野菜と果実ばかりを食べ、流行りの髪型に結い上げ、一番似合う化粧をした。彼が好きだと言った甘い果実の香水も忘れない。爪を薄紅にほんのり色付かせて、最後に花真珠のピアスとネックレスで飾る。そうしてやっと、示された時間に家を出た。魔女が誰かに誘われたなら、少しくらいは待たせてさしあげないと。
 招待状に書いてあった、神酒の歓楽街の港の上。星と波の歌だけが聞こえる場所で、彼は魔法の明かりと共に箒に座っている。とびきりに着飾った私とは違い、彼はシャツにスラックスに、気に入りのショール。お店でいつも見ている姿と変わらない。それでいい。私が彼と二人の夜に、一番綺麗な私でいられるのだから。

「こんばんは、シャイロック。休日にお誘いいただけるなんて、私が特別だって勘違いしちゃうわ」
「おや。そう思われてくださらないのです?」

 意地悪な言い方。私はあなたの店の、厄介な客だというだけ。自分で一番わかっている。
 彼の隣に箒を並べ、彼の見上げる空を見た。月のない夜、街の喧騒からも離れたそこは、光を束ねてドレスが作れそうなほど星の輝きに満ちていた。音のない星の歌を浴びながら、その中に紛れるように囁いた。

「新月ね。あなたの店のお休みは、ここ数年、新月ばかりだわ」
「お気付きでしたか。何かの代わりにされるのは、気持ちの良いものではありませんから。毎月だと文句を言われるので、数か月に一度は開けるようにしていますけど」
「またあの男の話」

 苛立ちについ、星の歌を穢した。彼の美意識に反するだろうけど、シャイロックは艶やかな瞳を、憐れむように私に向けただけだった。
 新月。月が見えない夜は、まるでその寂しさを埋めるみたいに、あいつはあの店にやってくる。そしてシャイロックや他の客に趣味の悪い話題を振っては叱られ、それでもめげずに居座り続けるのだ。いつしかシャイロックが新月の夜に店を閉めるようになってから、その光景も減ったけれど、彼が現れるのは新月の晩に限らない。次第にみんな慣れ始め、今や議論を楽しむようになっている。
 私はすぐにあの男が嫌いになった。デリカシーも倫理観もなく、人の心にずけずけ踏み入っては悪びれもせず笑っている。西の魔法使いたちは生来の好奇心に呼応してあいつのことを好きになっていったけど、私は嫌でたまらなかった。好奇心に勝る拒絶だった。
 なるべくあの男と空間を共有したくない私を、シャイロックは微笑みと共に許容してくれて、魔道具を通して店の中を確認できるようにしてくれた。薔薇色の蝶は、今日は来ても構いませんよ、という彼からの合図だった。
 シャイロックがパイプの煙を吐いて、子守歌のように呪文を唱えた。するとグラスが二つとシェイカーが一つ、私たちの前に現れる。シェイカーが傾いて、グラスにドリンクを注ぎ始めた。まるで彼の操り人形みたいに。夜の中に漂うドリンクは何色なのかもわからない。だけど星の光を一緒に注がれたグラスは、万華鏡のように様々な光を帯びて輝いていた。シェイカーが消えたのと同時に、私達はグラスを取る。どちらからともなく腕を伸ばし、互いのグラスで涼やかに音を鳴らした。そっと口に含むと、私の好きなルージュベリーのリキュールに、レモンとほんの僅かにワインの香り、そして微かに感じる刺激的な発泡感。今日の星空のよう。私と共に過ごす夜のために作られたことがわかって、とても気分が良かった。
 だけど、ずっとこのままでいられないことはわかっている。私は酒場の厄介な客。一番最初に世界一の学者の悪口を言い、好きな酒をたらふく飲んで閉店まで居座る、金払いがいいだけの客だ。そんな私がこんな特別な夜に招待されたのだから、その理由も推して量れるというもの。やがてグラスの酒を半分ほど飲んだところで、シャイロックがあでやかな眼差しを送ってくる。魔法の灯りに照らされた顔は、陶器のように滑らかだった。

「あの男の話をしても?」
「嫌よ。でもあなたに誘われて気分が良いから、特別に聞いてあげるわ」

 率直に気持ちを言えば、シャイロックは楽しげに喉を鳴らして笑った。彼の手の中でドリンクが揺れて、小さな海のようだった。

「あなたが嫌悪するあの男に──あまり認めたくはありませんが、私は似たところがあるのですよ。手の届かないものに、どうしようもなく焦がれ続けるところ」

 どこか自嘲するような声色だった。シャイロックの微笑みは、いつだって誰かを包み込むようなのに、今だけは己に向けているようだった。

「あの男の好ましいところはいくつかありますが、根底にはそれがあるのかもしれません。似ているからこそ、愚かとわかって惹かれてしまう。全く嫌になってしまいますけどね」

 こんなことを話してもらえるなんて、やっぱり私は特別なのかもしれない。多くの者が尊敬し、崇拝さえする世紀の天才。それを心から嫌悪する女は、あなたのお気に召したかしら。だけど、私の嫌悪を受け入れることはあれ、懐柔されることは決してない。それこそが酒場の主、シャイロック・ベネットなのだから。
 私を新月の星のコンサートに招待した理由はこれだ。彼は私に、“諦めろ”と言っているのだ。私だって本当は知っている。あの二人の間に割って入れるはずがないことを。
 ──だから、西の魔女の私は笑ってみせる。

「納得するわ。だけど、シャイロック。あなたは何もわかっていないのね」

 それだけ言ってグラスを傾ける。私のためのドリンクを飲み干して、グラスを下ろしたところに見えた彼は笑っていなかった。気分が良かった。微笑みの無いシャイロックを引き出せるのなんて、私とムル以外にいるかしら。

「どういうことです?」
「あら、あなたに訊かれるなんていい気分。そのまま教えられるのなんて、退屈じゃなくって?」
「……ふふ、その通りですね。では」

 蝶のように優雅に、海風のようにまっすぐ彼の手が伸びてくる。あっという間にグラスを持った手を引かれて、綺麗なそれはシャイロックのものと一緒に夜に落ちて消えた。腰を抱かれ、箒の上でバランスを崩したのと同時に彼の箒まで引き寄せられる。つややかな髪が私の頬に落ち、それを払うように指先が触れた。ワインレッドの瞳。星は温度が低い方が赤く見えると教えてくれたのは、皮肉なことにあいつだった。

「その意地悪な唇を、溶かしてさしあげないと」

 身体の芯を蕩かすような囁きと、呪文。甘い煙に包まれて、私たちは蝶になる。ひらひらと二羽で飛ぶ姿は、人間が見ればじゃれているように見えるのだろうか。ひとひらの鱗粉さえ残さない、夜を飛ぶ蝶は。


 *


 シャイロックが先に眠ることはないし、私より後に起きることもない。広いベッドでただ一人、気怠い身体を起こすと、高く昇った太陽の光がレースカーテン越しに目を灼いた。もう昼の刻だった。部屋を見渡すと、仕立てたばかりの新しいドレスは丁寧にハンガーに掛かっていた。
 魔法で簡素なワンピースを纏い寝室を出ると、ほんのりと小麦の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。匂いに誘われるようにダイニングの扉を開けると、髪を下ろしてローブを纏ったシャイロックが食卓を準備してくれていたところだった。突然入ってきた私に驚く様子もなく、シャイロックは顔を上げて、おはようございます、と当たり前のように挨拶を口にする。実際、いつもそう。目が覚めた時に隣にいてほしい、なんて時期はもうとっくに通り過ぎている。

「簡単なものですが、どうぞ召し上がって。このあと私は仕入れに行きますが、いつものように好きに過ごしていただいて構いませんよ」
「いつもありがとう、シャイロック」

 バターをのせたトーストに、ベーコン、そして二粒の小さなトマトに、温かいコーヒー。西の夜を支配する男に昼の食事を支度させることの、なんと贅沢なこと。私たちは向かい合って座り、コーヒーカップに手を伸ばす。一口飲んでカップを下ろすと、向かいの男がこちらを見ていた。

「どうしたの?」
「いいえ。いつもより丁寧にしたつもりでしたが、昨夜は甘い声しか聞けませんでしたので。悔しい思いをしていたところです」
「あら、とっても良かったわ。次も昨夜くらい情熱的に抱いてくれる?」
「昨夜と同じくらい、でよろしいのですか? お望みでしたらそれ以上してさしあげるのに。しかし」

 ひとの身体を吐息だけで熱くしておいて、シャイロックは再びカップを傾ける。言葉を選ぶためのほんの数秒を、コーヒーを飲むことで誤魔化したみたい。カップの向こうから現れた彼の表情は、どこか呆れているようにも見えた。

「きっとあなたは、どんなに激しく、優しく抱いても言ってくださらないでしょう。私もそれが、他者に解を求めるものでないと、わかっていますので」

 咄嗟に、喉の奥から笑いが零れた。それには気付いているのに、肝心なところをわかっていないのは、この人の愛も盲目なんだろうか。
 その通り、私は決して言う気がない。伝えてなんてやるものですか。私にとっても認めたくない、心底嫌なことなのに。
 あいつがシャイロックを見る時の興味に満ちた眼差し。試すような言葉。猫のような声。
 ──ムルは手の届かないものなんかじゃなくって、あなたの友達なのに──だ、なんて。




スノウ/ホワイト クロエ/ラスティカ オズ/フィガロ リケ  オーエン ミスラ ムル ファウスト ネロ
ヒースクリフ シノ レノックス アーサー  カイン ルチル/ミチル シャイロック ブラッドリー
▲目次へ














ブラッドリーとモブ

「おい。おい、目を開けろ。死にたくねえならな」

 激しい熱のような魔法に、強制的に目覚めさせられる。冬を迎えた北の国の空を、魔力が尽きるほど飛び続けた身体は、もう指先さえ動かない。他者の魔力を弾くなんて、もってのほかだった。
 雪の中に落ちたはずなのに、そこは白ではなく、淡いブルーの世界だった。まるで宝石のように、壁が七色の光を帯びている。天国かと見まがうほど美しいのに、目の前の彼は眩いほどの生命力があった。
 彼は、顔に大きな傷のある──魔法使いだった。


 *


 ──その魔女は元々、僕の親代わりでもあった。
 魔法使いとして生まれた僕は、恐らく両親の顔すら見る前に、村を守護していた魔女の元に引き取られることになった。
 人々が必死に山菜や獣を狩ってくるのも、長い冬のための支度も、全て窓から覗くだけ。この家のことは全て世話係の村人がやっていた。
 代わりに僕に課せられたのは、魔法の修練。朝から晩まで、食事時以外はずっと与えられた呪文を唱えていた。最初に教わったのは、北の国で生き抜くための護身術。とはいっても、守りに入るよりやられる前にやる、という方針だった。獣程度に対処できるようになってからは、一人で森の中に足を踏み入れて毒草や薬草、森深くにある湖の水を取りに行ったりもした。
 彼女は母のように振舞うことはなく、魔法を教わる時以外に言葉を交わすことはなかった。しかし僕は漠然と、彼女と共に──もしくは彼女の後に、この村を守ることになるのだろう、という気がしていた。会ったこともない両親の暮らす村を守護するのが、僕の役目なのだと。
 そうだ。今思えば、僕は途方もなく愚かだったのだ。
 その日は何の前触れもなく訪れた。朝の瞑想を始めようとした時に、魔女が話しかけてきたのだ。

「お前、いくつになる。覚えているか」

 ──僕自身のことについて尋ねられたのは、初めてのことだった。驚いたが、深く考える間はなさそうだった。

「十八になりました」
「身体は。成長は続けているのか」
「五年前ほどではないですが、まだ少しずつ伸び続けていると思います」
「そうか」

 それだけ言って、魔女はため息をつく。──瞬間、僕は咄嗟に後ろへ飛び退った。木が割れる嫌な音がして、思わず目線を下げると、僕が立っていた場所にはダガーが突き刺さっていた。彼女の魔道具だった。
 全身から汗がぶわっと噴き出てきた。どうして。何も誤ったことは言っていないし、昨日も何事もなく過ぎたはずだった。殺気を感じると、考える前に身体が動くまでにしてくれたのは、このダガーの持ち主である彼女のはずだった。しかし、これは修練の一環ではないことはわかる。現に彼女は殺気を一切消さず、呪文を唱えて再びダガーを構えている。どこか満足げな、それでいて苛立ちも含んだ表情を浮かべて。

「反応がいい。さすが私が教えた子だ」
「……突然、なんなんです……!」
「今日、お前を石にして喰らう。そう決めた。私の手足にするつもりだったが、その力はいずれ──」

 そう言った魔女の手元でダガーが光を帯びる。言葉の続きなどを気にしている場合ではなかった。魔法で壁を破り、僕は箒に跨って空に飛び立った。
 後ろを振り返る余裕などありはしなかったが、背中をびりびりと走る殺気が、魔女が追ってきていることを告げている。ずっと彼女に魔法を教わってきた。ずっと彼女の魔法を見てきた。魔道具のダガーを軸に、広範囲の敵を切り裂く魔法は、掠りでもしたらもう終わりだ。飛ぶ。飛ぶ。飛ぶ。空気が冷たくなると知りながらどんどん上へと飛ぶ。僕が魔女と比べて優っているのは体力くらいだった。なるべく高く、早く、遠くへ。こんなところで呆気なく死にたくない。ただ魔女が言うまま過ごしてきただけで、命を終えてたまるものか。この手が何かを得たことも、何かを守ったこともないのに!
 天を覆う分厚い雲の中に身体を滑り込ませて、ひたすらに僕は飛んだ。肌を裂くような、冬を迎えた北の国の上空。人間であれば凍死するほどの空気は、魔法で身体を守ってはいてもどうしようもなく痛い。それでも僕は飛ぶ。飛ぶ。飛ぶ。自己の守護、箒のコントロール、気配の察知。神経と魔力を限界まで絞りながら。
 そうして全力を超えて逃げ続けるうちに、いつの間にか背中に触れる殺気は消えていた。それでも僕は怖くて、気配が消えているだけかと思って、ずっと飛んで──飛んで、もしかしたら海にまで出てしまうかもというくらいに──飛んで──。
 ──そして、空に投げ出された。魔女が追い付いたのではなく、魔力が底をついていた。箒が消え、そのまま雪の積もる地面へと落ちていく。落ちながらも、頭はやけに冷静だった。もう空を飛べないことはわかっている。だから、最後の力を振り絞って、頭上に残り滓のような魔力を集めた。緩衝の魔法と分厚い雪で、即死だけは免れるだろう。そのあとは──その後は、もう、どうにでも。頬を包む冷たい雪の感触も、意識を引き戻しはしなかった。


 *


「おい。おい、目を開けろ。死にたくねえならな」

 激しい熱のような魔法に、強制的に目覚めさせられる。目を開けた先にいたのは、顔に大きな傷のある──魔法使いだった。雪の中に落ちたはずなのに、僕は淡いブルーの世界の中に寝かされていた。その世界は天国かと見まがうほど美しいのに、目の前の彼は眩いほどの生命力がある。目を開けた僕を見て、ふっと口角を上げる。まだぼんやりと霞む頭に、彼の声が容赦なく降った。

「魔法使いがどうしてあんなとこにぶっ倒れてたんだ。ミスラにでもやられたか? だとしたら五体満足なだけ上等だけどよ。一体何があったんだ、話してみろ」

 ミスラ。話には聞いたことがある。燃えるような赤い髪を見たら生きては帰れないという。それを言ったのもあの魔女だったのに。そんなことを考えながら、僕は話した。魔女が守護する村の出身であること、共に過ごしながら魔法を教わっていた魔女に突然石にされそうになったこと、そこから必死に逃げてきたこと。彼は僕の話を、不敵な笑みを浮かべながら聞いていた。衰弱で頭も回らず支離滅裂だったろうに、ただじっと聞いてくれていたのだ。

「……アデルんとこの村か。最近ちっちゃいのと暮らし始めたと聞いてはいたが、東生まれのくせにすっかり北に染まりやがって。――まあ、お前さんは北の洗礼を受けたな。魔法使いも魔女も、自分より強い奴、強くなる奴ってのは目の上のたんこぶだからよ。一緒に何かができるだなんて大間違いだぜ。──俺を除けばな」

 自信に満ちたその言葉に、思わず目を見開いた。彼の顔を見たいと思った。必死に焦点を合わせて、傷の上で煌めくワインレッドの目を見た。整った精悍な顔立ち。生々しい傷。不敵に笑う口元。白く静かな北の国に在って、大輪の花のような存在感だった。僕の反応に満足したのか、ふふん、と鼻を鳴らす。

「引きこもってても、噂くらいは聞いたことあんだろ? 俺は死の盗賊団の首領──ブラッドリーだ」

 ──息を呑んだ。その名前も、魔女から聞いていた。宝と聞けばどんな危険があっても必ず手に入れる、魔法使いの盗賊団。それをまとめあげる男がいるのだと。魔女は高価なものを持たなかったし、当然僕も持っていなかったから、関わることはないだろうと思っていた。
 そんな彼が、今、目の前で笑っている。

「てめえはアデルが殺そうとしたガキだ。つまりアデルが脅威に感じた力があって、そんでもって逃げ切る根性がある。執念深い東の魔女から逃げ切るなんて、なかなかできることじゃねえよ」

 一瞬、何を意味した言葉なのかわからなかった。少しずつ反芻していくと、そんな熱がどこにあったのか、かっと頬が熱くなる。
 褒められている。認められている。魔女は必要なことしか言わず、言われた通りのことをこなしてもそんな言葉をかけてくることはなかった。それこそ、今朝の襲撃を避けた時の一言が、最初で最後だった。
 そんな僕を、大盗賊団の首領が、認めてくれている?
 頭がかき乱される僕の顔を、彼は覗きこんだ。二人だけの空間で、まるで内緒話のように声を寄せる。

「てめえは間違いなくいい仕事をする。いや、させてやる。だからスカウトだ、ちっちゃいの。ここで選べ。俺の下について仕事をするってんなら、てめえの村を奪い返して、アデルとのけじめをつけさせてやる。俺の下にはつかねえってんなら、てめえはただ雪の中で野垂れ死ぬ」

 ──ほんの一分前に言われたら、迷ったかもしれない。何かを得たことも守ったこともない手が、何かを奪う手になるなんて、と。
 だけど。彼は助けてくれただけじゃない、僕を初めて、認めてくれたのだ。

「どうする」

 返事は一つしかない。彼が繋いでくれた命と心だ。彼のため──そして、僕が守ろうと思っていたもののために使わないで、どうするっていうんだ。
 雲間から差し込む光に照らされるような心地で、僕はまず、生唾を呑みこむ。
 今日をもって──俺は、盗賊になる。




スノウ/ホワイト クロエ/ラスティカ オズ/フィガロ リケ  オーエン ミスラ ムル ファウスト ネロ
ヒースクリフ シノ レノックス アーサー  カイン ルチル/ミチル シャイロック ブラッドリー
▲目次へ

inserted by FC2 system