1回目

 裏通りに新しく、美味しい料理屋ができたらしい。同僚がそう話しているのを聞いて、ああ、じゃあいってみよう、と深く考えずに決めた。夕飯をどうしようかぼんやり考えていた矢先だったし、話題にあがるということはきっと外れはないのだろう。
 私が聞き耳を立てていることを知らない同僚たちは、店の場所も丁寧に教えてくれた。早速、仕事が終わってすぐに向かうことにした。
 この辺りは雨の街の大通りと近い。その分、路地裏に入ると道が入り組んでいて狭いところが多く、歩行者でも一方通行が多い。慣れないと近い場所に向かうのにもひどく時間がかかってしまったりする。
 しかし私はこの辺りを熟知している。この道は百五十年前に転倒事故が起きたからこちらからは通れない。向こう側に行きたいなら一本奥の道。こっちの道は決して立ち止まってはいけないことになっている。三百年前に影を奪って人を操る悪い魔法使いがいたから。もうその魔法使いは別の魔法使いによって懲らしめられているわけだけど、決まりだけが残っている。この街には数えきれないほどそんな場所がある。
 その店は仕事場からは比較的行きやすい場所で、法典を掠めることさえなく十分ほどで辿り着いた。この辺りは何度も通ったけれど、確かに見覚えのない店だった。外装はシンプルで、元々あった建物から大して手を加えていないように見える。しかし、食欲をくすぐる香りがふんわりと漂っていて、仕事を終えたばかりの身体には毒とさえ言えた。夕飯時より少し早いからか、店内の人の気配は薄い。新しい上に美味しいと話題の店なら、すぐに混み始めるだろう。私は深く迷う前に、店内に足を踏み入れた。

「ああ、いらっしゃい」

 どこか気だるげな若い青年の声が、私を出迎える。焦点をキッチンの彼に合わせた瞬間、呼吸が止まった。
 彼は魔法使いだった。
 その時、私の頭によぎったのは西の国にあるベネットの酒場。店主は初めてでも快く歓迎してくれるが、魔法使いで賑わう酒場は独特の雰囲気がある。この店の主はあのシャイロックよりも随分と警戒心が高く、卑屈ささえうかがわせる。だから咄嗟に私は、妙な問いを口にした。

「――初めてなのだけど、構わない?」

 きっと彼は、不用意な人とのかかわりを、好まないと思って。
 しかし私の言葉に、彼は目を丸くした。そしてふわりと優しく不器用な微笑を浮かべて、私に席を指し示す。

「そんな敷居高い店じゃないよ。良かったらカウンター、どうぞ」

 それはそうだ。ここは首都の料理屋。内装も素朴だし、壁に飾られたメニューも良心的な価格。市民に馴染む穏やかな店に違いない。
 変な質問をした気恥ずかしさを、何事もない振りをして誤魔化しながら、私は席に着く。メニューを差し出してくれる手は古傷だらけで、店を開いたばかりの若い青年の手とは思えなかった。


2回目

 私は西の国の生まれだった。今いる東とは正反対の気質なので、時折同胞に会うと驚かれるのだけど、自分はそうは思わない。
 人間の暮らしが気に入っていたのだ。だから混ざって生活するために、変身魔法をひたすらに磨いた。人間に等しく訪れる老い、変化する見た目。怪しまれないために、それを自分の身体に表現し、巧妙に変身魔法を重ねる日々を過ごしている。選んだ仕事や生き方に飽きると死んだことにして、また新たな見た目で“人生”をスタートする、そんなことを繰り返している。職人、ウェイター、役人、その他にもいろいろ。仕事は人生を終えるたびに変えた。それこそが私が何度も“人生”を繰り返す目的。何故なら私は西生まれの魔女、好奇心だけは強かったので。
 そんな中、私の姿を知る人間が街からいなくなる数百年に一度だけ、私は本来の姿に戻ってその年齢をいじりながら過ごす。ちょうど、今はその周期だった。
 そうやって生きるのに最適なのが東の国だった。人生を捨てる足枷になる繋がりはなるべく排除したかったし、他の魔法使いの例に漏れず、私も孤独には慣れていた。紆余曲折はあったけれど、変身魔法というのは高度なものだし、一人籠もって修練を積んだ期間も長かった。その修練の中で、自分の魔力をほとんど完璧に隠す術も身につけた。そりゃあ、オズやフィガロ相手には無意味だろうけれど、そうでもなければ私を魔女だとは思わないだろう。
 だからきっと、この店主だって、私が魔女だということに気付いていない。善良で一般的な取るに足りない人間だと思っている。
 それでも余計なしがらみを厭うなら、彼が魔法使いだと気付いた時点で店に行くのをやめるべきだったのだろう。だけど。

「はい、注文のグラタン」

 目の前に差し出される、湯気の立つグラタン。短い感謝を述べて、冷めないうちにスプーンで口に運ぶ。出来たばかりの熱さが身体に染みわたる。甘みのあるホワイトソースとチーズの塩気のバランスがちょうどよく、何か隠し味もいれているようで、味に深みがある。自分じゃ決して作れない味に、またこの店に足を運んでしまった。
 何百年も生きてきて、今更食事に絆されるなんて、愚かな話だとも思う。だけどそれくらいには、彼の料理は丁寧で美味しいのだ。まるで、私ではない誰かのために、何百年も作り続けていたかのような――、これは意地の悪い皮肉。
 そして私は西生まれの魔女。やはり好奇心もある。長く雨の街に住んでいるけれど、彼を見たことはなかったし、他の国から流れてきたんだろうとは想像がつく。そんな彼が、魔法使いが忌み嫌われるこの国で、どうやって過ごしていくつもりなのか。

「……グラタン、好き? 前回も頼んでた気がしますけど」

 そんな意地の悪いことを考えていたら、声をかけられて顔を上げた。彼が皿を洗いながら、遠慮がちにこちらを見ていた。頭の中を覗かれてはいないだろうけど、最初に変な質問をしたから、覚えられてしまったのかもしれない。少し気恥ずかしいまま、私は微笑んでみせた。

「ええ。前回がおいしかったから、つい。店主さんの得意料理は別?」
「メニューにあるものは全部得意ですよ。最初だから、自信もって出せるものだけにしてるんで。でも強いていうなら」

 そう言って彼は視線を私の後ろに向けた。その壁には、店のメニュー表が飾られている。その文字を眺めながら浮かべる微笑みは、何故だかどこか痛ましい。

「……フライドチキンかな」

 懐かしむような、愛おしむような、自傷行為のような。その表情は、不器用でいびつな魔法使いそのものだった。
 ――彼はきっと、私ではない誰かのために、料理を作り続けていた。


3回目

「店主さん、これ美味いね! ピリッとした辛さが効いてて、俺好みの味!」
「気に入ってもらえて良かった。いつも追加で胡椒かけてらっしゃるから、そういうのが好きかと思って」

 料理を待っている間、カウンターにいる男性と店主さんがそんな話をしているのが聞こえた。このお客さんは来るたびに見かけるから、私よりもずっとこの店に来ていて、店主さんとも親しいのかもしれない。いつもカウンターの左に座っている、気のいいお兄さん。私は毎回右端に案内されるので、話したことはないけれど。嬉しそうな姿を視界の隅で感じながら本を読んでいると、こちらに皿が差し出される気配に顔を上げた。

「はい。フライドチキンとバゲット、あとワインです」

 本を鞄に仕舞い込み、私は皿とグラスを順に受け取った。今日は教えてもらった彼の得意料理と、おすすめのワインを頼んだ。私が女性だからか切り分けるか聞かれたけれど、折角なのでそのままでと断った。カウンターの反対側にいるお兄さんと店主さん以外、肉にかじりつく姿を見る人はいないし、ここでしか繋がりの無い彼らに見られたところでどうってことはない。
 皿に乗ったチキンは二つ。持ち手のところにペーパーが巻かれているが、片方は白で片方は青だった。皿を見下ろす私の頭にそっと声が降る。

「その二つ、違う味付けにしてみたんです。どっちが好きか、教えてもらえると嬉しいんですけど」

 どこか遠慮がちな表情と声だった。頷いて、はじめは持ち手が白い方に口をつける。揚げたてのサクッとした衣の感触の後、柔らかな肉の味が口の中に広がる。笑いニンニクと胡椒の風味が効いていて、思わずワインに手が伸びた。
 少しずつ食べるのは上品ではないと知りつつ、一度それを置いて、次は青い方に齧りついた。肉の柔らかさと香ばしさはそのままに、どこか味に深みがある。微かに花のような甘みと清涼感。どこかで食べたことがあるような、もどかしさにも似た感覚もある。ただ言えるのは、私はこの味を好ましいと感じることだ。

「どちらも美味しいけど、こっちの方が好き。何が違うの?」
「やっぱり。そっちにはグラタンに入れてるハーブを少し衣に混ぜたんです」

 ――思わず目を丸くする。同時に、ここのグラタンがどうしてあれほど美味しく感じたかも納得がいった。
 カウンターの反対側に座っているあの人より、私はきっと通っていない。この店も話題になってきて、お客さんだって随分と増えた。今だって、カウンターに座るのは二人でも、奥にあるテーブルはもう満席だ。
 なのに、たった三回目の私にも、こうして寄り添おうとする。

「……店主さん、すごいのね。記憶力もいいし、そんなアレンジもすぐできるなんて」
「そんな、褒めすぎですよ。ただ」

 彼は笑った。照れ隠しでもなんでもなく、どこか悪戯っぽく。彼がこんな風に笑うのを初めて見た。

「おいしそうに食べてくれるお客さんは、さらに喜ばせたくなっちまって」

 私は息を呑む。前回に感じた、寂しさにも似た感情が誤っていたことを知る。
 確かに彼はきっと、私ではない誰かのために、料理を作り続けていたのだろう。
 ――だけど、私のためにも。なんのしがらみもない誰かの為にも、彼は。


a回目

 いつしか、月の最後に彼の店へ行くことが恒例になっていった。彼も早々に気付いたようで、月末はいつもカウンターの右端を空けてくれている。私たちは魔法使い、約束はしない。なのに当たり前のように、月末の私の居場所はそこにあった。
 その日は週のはじまりで、店は閑散としていた。わざわざ彼が空けていなくても、私が来た時点でカウンターに座っているのは一人だけ。どこかくたびれたジャケットを纏う、中年の男性だった。

「ここはいい店だねえ、店主さん」

 私が席に着くのとほとんど同時に、その人は溜め息のようにそう言った。キッチンの中から「ありがとうございます」と応える彼の声にも戸惑いが滲む。差し出されるメニュー表を受け取りながら、私はつい聞き耳を立ててしまった。盗み聞きの趣味はないけれど、その人の後ろを通る時、背中が驚くほど小さく見えたものだから。からん、とその人の手のグラスで氷が鳴る。濃いウイスキーのソーダ割だった。

「最近妻が冷たくてねえ。早く帰ると顔が怖いんで、仕事がない日はついこの店に来ちまう。良くないとは思ってるんだが……どうしたもんかねえ」

 ――よくある話だ。悲しいことに。いくつもの人生を歩んだ中で、そういった話はいくつも聞いた。原因は夫側か妻側の不理解、積もり積もった不満の蓄積、体内のホルモンバランスの変化、他にもいろいろ。その人たちによって様々で一概には言えない。解決するには夫婦間のコミュニケーションしかないだろうと、魔女だってわかる。――魔女だからこそというべきか。
 優しい店主さんはきっと穏やかに応えるのだろうと、ただの客である私はぼうっと考えた。彼だってきっと、こうして人間と関わる中で、そんな話は山ほど聞いただろうから。今日は何を頼もうかと視線を落とす私の耳に、まるっと五つ数えるほどの間を置いて、彼の声が届く。戸惑いと躊躇いが潜む、苦い声だった。

「……きっと俺より、一本向こうのバーにいるアンさんのほうが親身に聞いてくれますよ。いい人ですし、女性の気持ちもわかると思うんで」

 ――それは、私の予想とは違う言葉だった。手を伸ばして彼のグラスにレモンを飾る気遣いはあるのに、弱った人間のぼやきを彼は受け止めなかった。カウンターの男性が、今度行ってみるかなあ、と力なく微笑んだのが、顔を上げないままの私にも伝わる。
 ……ああ、そうか。この人は。
 誰のためにも料理を作りながら、誰かに尽くすことも仕えることもしない。誰かの心に寄り添おうとはするのに、誰かの心に触れたり、踏み込むことは決してない。
 五感を一つ支配することの重さを、知らないまま。
 誰かを傷つけないために――もしくは、自分が傷つかないために。


n回目

 初めてこの店に入った時から、数年の時が過ぎていた。彼の料理を食べた回数は数えるのも億劫なほどになったし、よく一緒にカウンターに座った気のいい青年は笑顔の似合う女性と結婚した。妻との関係に悩んでいた男性は、この間一緒になった時は背筋を伸ばしてパリッとしたジャケットを羽織っていた。他の馴染みの客にも少しずつ、結婚だったり、離婚だったり、転職だったりの変化が訪れたように見える。
 変わらないのは、彼くらい。

「にしても、店主さんは変わらないねえ」

 その日は週の終わりで、店内は賑わっていた。奥のテーブル席は満席だったし、カウンターも馴染みのあるお客さんでいっぱいだった。週の終わりにこの店で酒を傾けるのは、ほとんどが男性客だった。
 それゆえか、少し無遠慮な話にもなる。キッチンにいる彼がたじろぐのが、カウンターの端からも感じ取れる。不変。魔法使いにとっては当たり前でも、人間の中では異質に映る。しかし彼はこの数年で、人間たちの信頼を築き上げていた。客の声に疑念はなく、純粋な好奇心だけがあった。

「今いくつなの?」
「……何歳に見えます?」
「二十六!」
「それだと店開いた時子どもだろ。三十二!」
「いや、以前から貫禄はあった。四十!」
「あはは。正解は秘密です」

 さらっとかわした彼の答えにブーイングが飛んだ。本物の不満ではなく、遊びの野次に近い。その声色の温かさで、彼と、彼の店が深く愛されていることを実感する。彼が年齢を言えない理由も、大体の真の年齢も、ひとりで知ってしまっている私だけが無言でワインを飲んでいる。

「若さの秘訣は? おじさんたちに教えてくれよ」
「んー……仕事終わりに飲む一杯?」
「それなら俺らと変わんないよ!」

 ブーイングはあっという間に消えて、まるで本のページをめくるかのように、ぱっと空気が朗らかになる。彼もにこやかに笑うけれど、その口元は僅かに固い。
 私はこの数年でほうれい線を刻んだ。目元の皴も、頬のシミも、少しずつ、少しずつ自分の顔にのせていった。体型にも年齢を重ねている。だけど彼は変わらない。穏やかな眼差しも、薄い唇も、筋肉の付いた腕もなにもかも。誰にとっても、出会ったあの時のまま。
 彼が築いた信頼も、ヒビが入れば崩れるまではあっという間だ。何よりここは東の国の首都。入ったヒビはあっという間に広がるもの。
 同じ場所に居続けるためには、少し彼は不器用すぎる。
 空になったグラスを置いて、ゆっくりと天井を見る。天井に飾りはない、あるのは備え付けの明かりだけ。元々この店は物が少なかった。きっと、愛着も執着も沁み込まないように。
 さよならが近付いている。


x-1回目

 その日、私の仕事は休日だった。たまには彼の店でゆっくり過ごしてみたくなって、開店時間の少し前に訪れた時、扉に一枚の紙が貼ってあることに気付く。
 閉店告知の張り紙だった。
 感謝を述べながら、来月中に店を畳む旨が書かれている。わかっていたし、覚悟もしていたけれど、動けなくなる自分がいた。扉から彼が出てくるまで、私はそこに立ち尽くしていた。店の“準備中”の看板を変えに来た彼は、突っ立っていた私に驚いた様子だったけど、きっと多くのお客さんが似たような表情をしていたのだろう。どこか寂しそうに笑ってから、店内に迎え入れてくれる。彼に手招きされて、ようやく足が動くようになった私は、座る動作さえ頭から消えてしまったかのような心地がした。絡まった糸のようにぐしゃぐしゃの頭で、やっといつもの席について、なんとか口を開く。

「……閉店しちゃうのね。折角繁盛しているのに、どうして?」
「まあ、実家に帰って来いって言われちまって……いい年だしね。ここで自由にやらせてもらったし、そろそろ孝行息子にでもなるかなって」

 人間の振りをして尋ねれば、人間の振りをした回答が返ってくる。歪で不器用なやりとりは、東の魔法使いそのもののようだった。

「ご実家は、どちらなの? そこでも店を開くの?」
「どうでしょう、まだ考えてなくて。場所はブランシェット領の隅っこなんで、ここからじゃ随分と遠いですよ」
「そうなの……寂しくなるわ。最後の営業日はいつ?」
「内緒にしてます。別れの瞬間とか、得意じゃないんで」
「確かに、得意じゃなさそう」
「はは、バレてた」

 二人きりの店内で、二人小さく笑い合う。そんなやりとりができる程度には、きっと互いに心を砕いていた。けれど私たちは魔法使い。別れにも孤独にも慣れている。砕いた心の分、一緒にいられるわけではないとわかっている。そもそも互いに、近く別れることにまで、心を使っていたと思う。
 いつものようにメニューを差し出しながら、彼は言う。

「馴染みのお客さんには言ってるんですが、店で何か欲しいものあれば差し上げますよ。調理器具とかは譲れねえけど、引っ越し、楽にしたいんで」

 メニュー表と言葉を受け取りながら、私は店内を見回した。そもそも物が少ない店内だ。だからこそ彼も、こんな風に呆気なく手放せるのだろう。ぼんやり考える私の目に留まったのは、カウンターの右端、私がいつも座る席の傍らにある一輪挿しと、そこに飾られたささやかな一輪の青い花。それを指差すと、彼は面食らったようだった。

「それ?」
「駄目?」
「いや、構いませんけど……いいんですか、これで。長持ちするものじゃないし、すぐ萎れますよ」
「いいの」

 すぐに手折れそうな細い茎を人差し指で撫でる。まるで頷くように花びらが揺れた。彼に視線を戻すと、戸惑ったような顔のまま。私はにこりと笑ってみせた。そんな振舞いはきっと、東の魔女らしくないと知りながら。

「でも、覚えていて。故郷に戻る前に、花をあげた女性がいたこと」

 そう言うと、彼の顔から戸惑いは消えず、むしろより深くなった。だけどそんな困惑を自分で茶化すように、「参ったなあ」と苦笑に変える。

「そんなことも言うんですね」

 冗談と片付けたかったのだろう。意地悪く肯定も否定もせず、私は笑ったままだった。ええ、知らなかったでしょう。
 私がどんな女かだなんて。何度通っても、出会ってから十年を超えても、あなたは誰の心にも触れようとしないから。


x回目

 一週間後に近くを通った時には、もう彼の店はからっぽになっていた。道行く人々が中を覗きこんでは、残念そうな声と共に通り過ぎていく。
 元々物の少ない店だったが、明かりが落ち、椅子が消えるだけで、これだけ物寂しくなるものか。胸が締め付けられるのを、唇を噛んで誤魔化した。私は彼の店に背を向けて、かつ、と靴で石畳を鳴らした。
 いくつもの路地を迷路のように通りながら、一本の道に入っていく。そこは決して通ってはいけないと、法典で定められている場所。魔女の家があるからだ。
 自分にかけていた魔法を解く。顔の皴もシミも消え、くすんだ肌は透明感を取り戻す。身体は軽くなり、髪は潤いをもって艶めいていく。十数年ぶりに本来の姿に戻って、私は家に帰っていく。
 ここは数十年に一度、魔女として過ごす場所。終わりにする人生の後始末と、新しい人生の準備をするための家。
 彼との別れが近いと感じた時に、気付いたことがあった。――この人生が、彼の店に彩られていたこと。
 あの店が無くなった以上、この人生を続ける理由はなくなってしまった。だから、生まれ変わる。また私は、新しい生き方を探す。今度は――そう。部屋の片隅に置いた新聞に手を取る。職場に置かれていたから、気まぐれで持ち帰った時のものだ。
 社会情勢や経済、貴族の醜聞など、小難しい文章が書かれたそれを額に当てる。たった一人しかいないこの家で、まるで何かから隠れるようにして、私は溜め息をついた。溢れ出た、に近かった。しがらみも繋がりも、何もかもが邪魔だったから、この街を選んだのに。

 この生は、彼の店が、彩っていた。


xx年後

 堅実な暮らしを好む東の国では、王族や貴族以外に著名な人物というのは現れにくい。ネロが店を出すとその実力から話題にはなるが、それも周辺地域だけのもの。馬車を持たない庶民は、徒歩で行ける場所以外になかなか興味を示さないためだ。
 しかしそんな東の国の首都、雨の街には一人、誰もが知る庶民がいた。手入れの行き届いた長い金色の髪に、夏の空のような深い青の瞳。ブランシェットの奥方にも引けを取らない美貌ながら、それを鼻にかけず、いつも朗らかな笑顔を浮かべる穏やかな女性。誰もが憧れる女性でありながら、彼女は誰のものにもならない。彼女の恋人は仕事だった。大手新聞社の記者を務める彼女は、政治や経済ではなく、雨の街の身近な話題を取りまとめて記事にする。彼女の人当たりの良い笑顔の元にあらゆる情報は集まったし、暗いニュースが続いても彼女の記事は人々に笑顔を与えた。
 ネロが再び雨の街に店を出して、二週間ほど。他でもない彼女の名前で、取材を打診する手紙が送られてきた。
 長続きしないとわかっている店で、有名になる意味はない。広い店でもないし、他の従業員を雇う予定もない。軌道に乗っていれば断るのだが、店を開いてまだ二週間。客を増やすきっかけは欲しかった。以前の客なんて、もう一人も残っていないから。
 とはいえ、一週間ほど返事を出し渋ったのだが、結局はYesの返事をした。何度か手紙でやりとりをして、取材は月末の開店前に行うことになった。それが今日の、これからの予定だった。
 店のドアがノックされたのは、予定の時間ぴったりのことだった。腰を上げ、扉の鍵を開いて迎え入れる。噂通りの美貌の女性が、目覚めたばかりの朝陽を浴びて立っていた。

「ああ、今日はよろしくお願いします。狭い店内ですけど、上がっていただいて……」

 そう言って、ネロは彼女を迎え入れる。彼女はにこりと微笑んで、促されるままに店内に足を踏み入れた。
 あれ、とネロの思考が一瞬止まる。そこにあったのは違和感だった。話では彼女はとても人当たりが良く、礼儀正しい人物だという。であれば取材に応じる店主が迎え入れる前に、挨拶の一つでもするものではないか、と。礼儀など大して気にしないネロだが、話を聞いた誰も彼もが口を揃えた言葉とは、見過ごせない乖離があった。
 がちゃん、と音がして、ネロが手を離した扉が閉まる。すると。

「こんにちは、店主さん」

 そこで初めて、彼女が喋った。取材に来た記者ではなく、あどけない少女が期待に震えるような声だった。
 瞬間、今まで全く感じなかった魔力が肌を撫で、ネロの全身がぶわっと粟立った。まるで夢でも見ているように、目の前の女性の姿が変わっていく。高度な変身魔法と魔力隠し。それら全てが解かれたあとに現れたのは、青い小さな花を髪に飾った魔女だった。それを見て、ネロは絶句する。

「……その、姿は……」

 かつてここで店を開いていた時、毎月末に訪れていた物静かな女性。違うのは、その身に纏う、膨大な魔力。
 魔女はうっとりと艶やかに笑う。あの時の戸惑いとは全く違う顔で、あの時と同じ言葉を口にする。
 ――北の国から紆余曲折を経て東の国へ流れてきた魔法使いは、誰にも何にも執着しないように生きてきた。何をも救わず、何をも握らず、ただ一枚の膜を通して、この世界に生きてきた。
 だがここで、初めて知る。他者の秘密を知らされてしまう。


「初めてなのだけど、構わない?」


 雨の街一の有名な人間が、魔女であることを。

 魔女は笑う。xx年ぶりの素顔を晒して、魔女らしく笑う。
 人の心に踏み込まない魔法使いの足を、自分の心に引き摺り込んで。




inserted by FC2 system