私は猫。名前とかはない。
 この魔法舎の近くに住んでいる。

 なんといってもここは快適。近くに森があるから遊び場には困らないし、食べ物に困ったときはちょっと鳴くと分けてもらえるの。ここに住んでいるのは、優しい人ばかりなのね。ああ、ほとんどが魔法使いなんだっけ。猫にとっては人間も魔法使いも違いはないけれど。
 こんな快適な場所だから、他の猫もよく見かける。魔法舎のみんなは、結構私たちのことが好きみたい。ファウストはよく食べ物をくれるし、それを用意してくれるのはネロなんですって。リケとミチルは遊んであげると楽しそうにするし、賢者様と呼ばれている人間はへにゃっと笑ってたくさん話しかけてくる。内容は結構とんちんかんだけどね、人間は私たちの言葉を知らないから仕方ないわ。この間ひなたぼっこをしていたときは、ルチルが紙と絵の具を持ってきたわ。鼻歌を歌いながら何か描いていたようだったけど、あの色あざやかな絵、私の絵だったのかしら?
 よく会うぶち猫は王子様に遊んでもらったと喜んでいたし、とら猫は蝶々を追っていたらいきなり猫のような魔法使いになってびっくりした話をしていたわ。いろんな猫と話すけれど、みんなここでの生活を楽しんでいる。私も含めてね。
 ――何より。何より私が、ここに住処を構えた理由は。
 ざり、という微かな音に、私は顔を上げた。この音は、あの人の革靴が、石畳を踏む音だわ。
 体を休めていた木陰を飛び出して、四つの足で石畳を駆け抜ける。生け垣の隙間を縫うようにして、魔法舎の扉まで一直線。
 外に出てきたばかりの、白くて華奢な素敵なひと。お目覚めの朝焼けの金色と、おやすみの夕焼けの赤色の目が、きらきら光って綺麗なひと。
 彼こそが、私がここに住むと決めた理由だった。
 彼の名前を呼んで、しましま模様の足元に身をすりよせる。私に気付いた彼は足を止めて、鬱陶しそうな溜め息をひとつついて身を屈めた。この溜め息は、今は“そっち”の彼なのね。レディの前で溜息なんて、ひどいひと。でもどっちの彼だとしても、ちゃんと目線を合わせてくれるところが好きよ。

「何。何か用?」

 あなたに会いたかったの。ここのところ姿を見ていなかったから、寂しかったわ。

「文句は賢者様に言いなよ。任務で南の国なんかに行かされてたんだ。お礼にって出されたお菓子ももう食べ終わっちゃったし、むかつくよね」

 そうだったのね、お疲れ様。ねえ、私、あなたに会えて嬉しいわ。

「もうちょっとましなこと喋れば、おまえ」

 そんな意地悪を言いながらも、彼は長い指を伸ばして私の頭を撫でてくれる。
 この瞬間が、たまらなく好きなの。言葉も表情も眼差しも冷たくて、まるで冷え切った朝霜の中に身を埋めたときのような感覚がしても、この指先があたたかいことを知っている。穏やかで慈愛に満ちた、優しい指先なのを知っている。この指に触れられると身体中の骨が溶けて、そこから花が咲いていくみたいになるの。まるでここだけ切り取られて、楽園に塗りつぶされたかのような。

「あーっ!」

 春のような心地に身を蕩かしていたら、そんな叫び声が聞こえてきた。心地よさに落ちた瞼を持ち上げると、魔法舎の玄関からひとりの人間が――賢者様が駆け寄ってきた。賢者様は彼の隣にすぐさま腰を下ろすと、きらきらと目を輝かせて私と彼を交互に見た。

「オーエン、今その子とお話してましたよね!? いいなあ、何話してたんですか?」
「ちょっと、いきなりなんなの」

 す、と私の頭から彼の指が離れていく。ああ、ちょっと残念。賢者様のことも大好きだけど、あの手をもっと堪能したかったのに。
 彼は賢者様の方を見て、にんまりとその口元を吊り上げる。 

「僕を南の国まで引っ張りまわした賢者様に怒ってるよ。賢者様じゃなく、僕のことが大好きなんだって。だから怒ってる」

 ううん、当たらずとも遠からずなのよね。全部違うわけじゃないけど、私、怒ってるわけではないのよ?
 “こっち”の彼はこうやってよく意地悪を言うの。あの指先から伝わる心はあんなにも優しいのに、不思議なのよね。皮肉屋な彼の代わりに、私は賢者様の膝に甘えるように額をこすりつけた。賢者様はぱあっと嬉しそうに笑って、私の頭を撫でてくれた。

「……そんなことなさそうですよ?」
「おまえ、少しくらい話合わせろよ」

 彼の舌打ち。でも賢者様に意地悪なあなたも悪いと思うわ。
 賢者様の誤解を解いたところで、今度は彼の膝に頬をすり寄せた。もう一度頭に触れる指先が心地良くて、喉がごろごろと振動した。いいなあ……という賢者様の羨望に満ちたため息が聞こえてきた。賢者様は本当に、私たちのことが好きだものね。そう思ってくれるのは誇らしいし、もちろん私も賢者様が好きだけど、彼がいる前ではごめんなさいね。

「……その子、本当にオーエンのことが好きなんですね。名前とかつけてるんですか?」
「名前? 正気なの、賢者様」

 ぴたり、と頭を撫でる指先が止まる。思わず目を開くと、視界いっぱいに広がった彼の顔は私のことをじっと見下ろしていた。その顔にはいつもの薄笑いはなく、無感情にぽつぽつと言葉だけが落ちてくる。

「名付けっていうのは祝福でしょ。他とは違う、世界で唯一のものであるという意味を授けるんだ。だから祝福には責任が伴う。そんなもの、負うつもりも意味もない」

 ……難しい話だわ。気ままな野良猫生活、名前があってもなくても困ることはない。ああ、でも、そう言われてみれば、そうねえ。
 私があの人の名前を呼ぶことはあったけれど、私、あの人に呼ばれたことはないんだわ。――それは当然のことで、仕方のないことだけど、思ってしまえば少し寂しいかも。
 彼の言葉を聞いた賢者様は、しゅん、と少し小さくなった。

「……すみません、安易な質問をしました……」
「わかってるならとっとと消えて」
「そうします……あ、ちょうどミチルと約束してた時間でした」

 最後に私を触りたかったようだけど、彼の膝元に収まったままだったので、伸ばされたかけた手はそのまま横に振られた。私は尻尾でさよならの挨拶を返した。
 そのまま賢者様は、中庭の方に消えていった。幾重にも重なった生け垣の向こうにその背中が消えたあと、ぽつり、と彼の唇が動く。

「……名前、ね」

 私は顔をあげて、彼の顔を見た。その口元には、いつものような薄笑いが戻っていた。

「欲しい?」

 ええ。あなたの声であなたのつけた名前を呼んでもらえたら、どれだけ幸せかしら!

「あげないよ」

 ……でしょうね。今のあなただったら、そう言うと思ったわ。

「でも」

 そう言って彼は立ちあがる。服越しの体温が離れていくのが寂しかった。寂しさのあまりに一鳴きする私の前で、彼のジャケットが翻った。おやすみの夕焼けの色と、お目覚めの朝焼けの色が、私のことを見て笑う。

「そんなに僕が好きなら、朝、僕のこと起こしに来てよ。あの双子に起こされるよりずっといい」

 ――思わず、息を呑んだ。
 そんな、そんな大切な仕事を、私にやらせてくれるの? 私があなたに朝を告げてもいいの!?
 早起きは得意だわ。カインやレノックスよりも早く起きられるもの。嬉しい、嬉しい、嬉しいわ! 私の朝のはじまりも、あなたの朝のはじまりも、同じように迎えられるということよね!?
 喜ぶ私を見て、くすくすと彼は笑っていた。でも、どこか含みのある声なのが気になる。ねえ、あなたの部屋ってどこにあるの?

「五階だよ」

 ――何よそれ。やっぱり意地悪なんだわ!


 *


 木の葉の隙間から金色の光が差し込んできて、私は目を覚ました。
 きらきら光る、まぶしく光る、彼の左の目と同じ色。
 今日からは、ゆっくりしてはいられないの。私は木陰を飛び出して、すぐに魔法舎の玄関に向かう。この時間はちょうど、レノックスが朝の鍛錬のために外に出てくる。彼が扉が開くタイミングで、私は魔法舎に忍び込む。
 彼の部屋は五階。一番上の階。たくさんの階段を登るなんて、私にとってはすぐのことだわ。
 待っていてね、オーエン。さあ、約束通り、あなたの部屋を探しましょう。

 私は猫。名前とかはない。
 今日からは、朝を告げる猫になるの。




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