「マリー! 今年は何のケーキにする?」
厨房からレナさんの声が飛んでくる。開店まであと二時間の店内。床にモップを掛けながら、三秒。自分に問いかけてから、私は厨房に向かって声を張り上げた。
「モンブランがいい!」
小さな栗の入った生クリームとスポンジの層、その上に一粒の大きな栗をのせて、マロンクリームでコーティングしたレナさん特製のモンブラン。お客さんからも人気が高く、私も大好きなケーキ。今年の“今日”は、それを楽しみに仕事を頑張ることにする。
今日――十月二日は、私にとって特別な日。ひとつの言葉さえ交わすことのなかった、弟の誕生日だ。
その日付を、明確に覚えていたわけではない。その日のことは覚えているけれど、まだ私も幼かったし、日付の感覚もあまりなかったから。
だけど、あの時――私が家から飛び出して、レナさんに拾ってもらった日の礼拝で、使徒さまが誕生した日が語られていた。その頃には暦のこともわかっていたし、ずっと会いたかった弟のことだから覚えていたのだ。
私の出自を全て知っているレナさんは、私がこの日を祝いたいと言った時、快く頷いてくれた。それから毎年この日は、私とレナさんの二人でひそやかにお祝いをしている。レナさんがケーキを準備して、私が少しだけ豪華な料理を準備して、おめでとう、と言葉を紡ぎ合って食べるだけのお祝い。祝う相手がそこにいなくとも。そんな私の自己満足に、レナさんはずっと付き合ってくれている。
モップをかけ終えて厨房を覗くと、バットに並んだたくさんのモンブランの中で、二つだけ、クリームの上にも栗がのったモンブランがあった。レナさんがすぐに気付いて振り返り、私に向かってにこりと微笑んだ。
「これ、私たち用ね」
それを聞いて私も思わず、頬が緩んだ。
特別な二つを氷と一緒に箱に仕舞い、お客さん用のケーキをショーケースに並べ、いよいよ開店時間。今日は一件、開店時間と一緒にケーキの注文が入っている。
店で一番大きなサイズのケーキ。直接店にいらしたわけじゃなく、店のポストにお金と一緒に注文の手紙が入っていたものだ。初めての注文方法だったので、不安といえば不安だけど、お金もきっちりどころかお釣りが心配になるほどにあったので、もし受け取りに来なくても店の損害はない。だけど、一体どんな貴族様が、レナさんのケーキを望んだんだろう。
というわけで、ひとすくいの不安と大きな期待と共に迎えた開店時間。しかし――素敵な紳士か、優雅な淑女かという様々な予想を裏切って現れたのは、小さな双子の男の子だった。
整った綺麗な身なりで、高貴な身分を思わせるけれど、初めはまさか彼らが注文主だとは思わなかった。でも、口を揃えて「ケーキを受け取りに来たのじゃ」と言うから驚いた。注文のことを知っているのは私とレナさんだけだし、彼らが騙っているとは思えない。私は驚きながらも、カウンターの裏に用意しておいた大きな箱を彼らの前に差し出した。
「これが頼まれていたケーキだけど、大丈夫? 僕たち二人で家まで運べるかな」
「大丈夫!」
「問題ないぞ! “ノスコムニア”!」
二人がそう声を揃えると、ケーキはぱっと私たちの前から姿を消した。一瞬落としてしまったかと思って血の気が引く。だけど、箱の痕跡さえどこにもない。床を見下ろして、瞬き。振り返って、最初に箱を置いていた棚の上を見て、瞬き。そして目の前で笑っている少年たちを見て、瞬きをした。彼らは驚くことなく、にこにこと楽しげに笑っている。間抜けな顔をしているであろう私の姿を見て。目の前で見るのは初めてだけど、その不思議さに心当たりはあった。
「……魔法、使い……?」
「そうじゃ! 我ら、優しい魔法使い。この店の評判を聞いて、食べてみたくなったのじゃ!」
「今日は我らにとっても、特別な日じゃからのう!」
「あっ、そういえば、お金足りてた?」
「我ら、この国の相場には疎くてのう」
「とんでもない、余るくらいだったわ。だから苺、たくさん載せたの。お釣りは……」
「いらないいらない! 我らの気持ちとして、受け取っておいて!」
「素敵なケーキをありがとう、お姉ちゃま!」
二人は声を揃えて笑い、同じ動きでダンスのようにくるりと回った。色違いのリボンが動きに合わせて優雅に揺れていた。
魔法使いだというのなら、様々なことに納得がいく。こちらこそとお礼を言って、スキップで軽やかに店から出ていく二人を外に出て見送った。彼らは何度か私に向かって手を振ったかと思うと、また揃いの呪文を唱えて、箒に乗って空へと飛び立った。
十年ほどここでやってきたけれど、魔法使いのお客様は初めてだった。魔法使いは長生きだというから、少年に見えていた彼らも、実はうんと年上だったりするのかもしれない。不思議なこともあるものだ、と店のドアノブに手をかけた瞬間、ふと、彼らの声が蘇る。
『今日は我らにとっても、特別な日じゃからのう!』
「……も?」
思わず再び、空を見た。悠々と空を飛ぶ少年のような魔法使いたちの背中は、今はもう、一枚の茶葉のように小さい。
風が吹く。秋の涼しさを孕んで、私の金色の髪を揺らしていく。
今日、私の知らないどこかで、彼らが祝う誰かがいる。
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