リケと姉と誕生日
クロエと元メイドと誕生日
オーエンと猫と誕生日
ブラッドリーと子分と誕生日
ファウストと人間と誕生日
ムルとパティアと誕生日
ミスラとチレッタと誕生日














リケと姉と誕生日

「マリー! 今年は何のケーキにする?」

 厨房からレナさんの声が飛んでくる。開店まであと二時間の店内。床にモップを掛けながら、三秒。自分に問いかけてから、私は厨房に向かって声を張り上げた。

「モンブランがいい!」

 小さな栗の入った生クリームとスポンジの層、その上に一粒の大きな栗をのせて、マロンクリームでコーティングしたレナさん特製のモンブラン。お客さんからも人気が高く、私も大好きなケーキ。今年の“今日”は、それを楽しみに仕事を頑張ることにする。
 今日――十月二日は、私にとって特別な日。ひとつの言葉さえ交わすことのなかった、弟の誕生日だ。
 その日付を、明確に覚えていたわけではない。その日のことは覚えているけれど、まだ私も幼かったし、日付の感覚もあまりなかったから。
 だけど、あの時――私が家から飛び出して、レナさんに拾ってもらった日の礼拝で、使徒さまが誕生した日が語られていた。その頃には暦のこともわかっていたし、ずっと会いたかった弟のことだから覚えていたのだ。
 私の出自を全て知っているレナさんは、私がこの日を祝いたいと言った時、快く頷いてくれた。それから毎年この日は、私とレナさんの二人でひそやかにお祝いをしている。レナさんがケーキを準備して、私が少しだけ豪華な料理を準備して、おめでとう、と言葉を紡ぎ合って食べるだけのお祝い。祝う相手がそこにいなくとも。そんな私の自己満足に、レナさんはずっと付き合ってくれている。
 モップをかけ終えて厨房を覗くと、バットに並んだたくさんのモンブランの中で、二つだけ、クリームの上にも栗がのったモンブランがあった。レナさんがすぐに気付いて振り返り、私に向かってにこりと微笑んだ。

「これ、私たち用ね」

 それを聞いて私も思わず、頬が緩んだ。
 特別な二つを氷と一緒に箱に仕舞い、お客さん用のケーキをショーケースに並べ、いよいよ開店時間。今日は一件、開店時間と一緒にケーキの注文が入っている。
 店で一番大きなサイズのケーキ。直接店にいらしたわけじゃなく、店のポストにお金と一緒に注文の手紙が入っていたものだ。初めての注文方法だったので、不安といえば不安だけど、お金もきっちりどころかお釣りが心配になるほどにあったので、もし受け取りに来なくても店の損害はない。だけど、一体どんな貴族様が、レナさんのケーキを望んだんだろう。
 というわけで、ひとすくいの不安と大きな期待と共に迎えた開店時間。しかし――素敵な紳士か、優雅な淑女かという様々な予想を裏切って現れたのは、小さな双子の男の子だった。
 整った綺麗な身なりで、高貴な身分を思わせるけれど、初めはまさか彼らが注文主だとは思わなかった。でも、口を揃えて「ケーキを受け取りに来たのじゃ」と言うから驚いた。注文のことを知っているのは私とレナさんだけだし、彼らが騙っているとは思えない。私は驚きながらも、カウンターの裏に用意しておいた大きな箱を彼らの前に差し出した。

「これが頼まれていたケーキだけど、大丈夫? 僕たち二人で家まで運べるかな」
「大丈夫!」
「問題ないぞ! “ノスコムニア”!」

 二人がそう声を揃えると、ケーキはぱっと私たちの前から姿を消した。一瞬落としてしまったかと思って血の気が引く。だけど、箱の痕跡さえどこにもない。床を見下ろして、瞬き。振り返って、最初に箱を置いていた棚の上を見て、瞬き。そして目の前で笑っている少年たちを見て、瞬きをした。彼らは驚くことなく、にこにこと楽しげに笑っている。間抜けな顔をしているであろう私の姿を見て。目の前で見るのは初めてだけど、その不思議さに心当たりはあった。

「……魔法、使い……?」
「そうじゃ! 我ら、優しい魔法使い。この店の評判を聞いて、食べてみたくなったのじゃ!」
「今日は我らにとっても、特別な日じゃからのう!」
「あっ、そういえば、お金足りてた?」
「我ら、この国の相場には疎くてのう」
「とんでもない、余るくらいだったわ。だから苺、たくさん載せたの。お釣りは……」
「いらないいらない! 我らの気持ちとして、受け取っておいて!」
「素敵なケーキをありがとう、お姉ちゃま!」

 二人は声を揃えて笑い、同じ動きでダンスのようにくるりと回った。色違いのリボンが動きに合わせて優雅に揺れていた。
 魔法使いだというのなら、様々なことに納得がいく。こちらこそとお礼を言って、スキップで軽やかに店から出ていく二人を外に出て見送った。彼らは何度か私に向かって手を振ったかと思うと、また揃いの呪文を唱えて、箒に乗って空へと飛び立った。
 十年ほどここでやってきたけれど、魔法使いのお客様は初めてだった。魔法使いは長生きだというから、少年に見えていた彼らも、実はうんと年上だったりするのかもしれない。不思議なこともあるものだ、と店のドアノブに手をかけた瞬間、ふと、彼らの声が蘇る。


『今日は我らにとっても、特別な日じゃからのう!』


「……も?」

 思わず再び、空を見た。悠々と空を飛ぶ少年のような魔法使いたちの背中は、今はもう、一枚の茶葉のように小さい。
 風が吹く。秋の涼しさを孕んで、私の金色の髪を揺らしていく。
 今日、私の知らないどこかで、彼らが祝う誰かがいる。




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クロエと元メイドと誕生日

「クロエ、誕生日おめでとうございます」

 グラタン、チュロス、レモネードにケーキ。クロエの好物ばかりが並んだ食卓に、魔法と色紙で飾りつけられた食堂。今日のために彩られたパーティー会場で、シャイロックは大きな花束をクロエに差し出した。チェック模様のやわらかな不織布に包まれたそれは、シックで艶やかな赤と紫を基調としながら、薄紫のランと青いニゲラ、白いカスミソウがぱっと明るい印象に仕立てている。クロエが腕に抱えれば、カスミソウが顎をくすぐるほどの豪奢なブーケ。クロエは薔薇と同じ紫色の目をきらきらと丸くした。

「わあーっ、素敵な花束! 色合いも、花の揃え方もすごく綺麗。中央のお店は花屋さんもお洒落だよねえ!」
「ふふ、そちらは中央ではなく、西のとある街で用意していただいたものですよ」

 シャイロックの言葉に、薔薇の目がしぱしぱと瞬く。愛らしい反応に、シャイロックの目が弧を描いた。

「そこは西では珍しく、魔法使いに寛容な街なんです。店主は人間のお嬢さんでしたが、少しお話をいたしまして――」


 *


 あの領主の屋敷の前に、若い女性が洒落た花屋を開いたんだよ。客のつてから聞いた通り、店主は初々しい女性だった。屋敷の前という一等地だが、身なりも内装も素朴で、西らしい華やかさとは縁遠い。しかし、店いっぱいに広がる花は虹のように整然と美しいグラデーションを描いていて、店に入った途端に心を躍らせるその輝きは、まさに西の人間が一等地で営むに相応しい店だった。
 それを見てシャイロックはほう、と小さな溜息をついた。この店であれば、彼への贈り物を頼むに相応しい。そうして、店主の女性に声をかけた。

「魔法使いの男の子への贈り物、ですか」

 シャイロックの話を聞いて、店主はそばかすの浮いた頬をふんわりと丸くした。この街は領主の影響で、魔法使いへの偏見が少ない。それが事実であることを彼女の表情で確信して、シャイロックは言葉を続けた。

「ええ。お洒落な子なので、彼が喜ぶようなセンスの良いものを贈りたくて。この街に素敵な花屋ができたと聞いて伺ったのです」
「嬉しいけど、私で大丈夫かしら。少し前までただの小間使いだったから、お店のやり方から手探りなんです」

 ――小間使いが独立して店を営むのは珍しい。結婚した相手の店を共に営むということはあるが、どうも彼女はそうではないらしい。この店には、彼女のこだわりと愛情ばかりが詰まっている。他の誰かが入る余地は、ほんの僅かもなさそうだった。
 そのあたりの背景も聞き出すのが得意なシャイロックではあるが、ここの主は彼女であり、彼女が提供するのは話ではなく花だ。シャイロックが舌から転がり落ちそうな話術を飲み込むと同時に、彼女ははにかむように笑い、紙とペンを取り出した。

「ご期待に応えられるように、力は尽くします。どんな方か聞いても良いですか?」
「もちろん。魔法使いとはいっても、あなたと同じ年頃の子です。踊るような赤い髪に、すみれ色の瞳が愛らしい子で。仕立屋を目指していて、とても素敵な服を作るんですよ」

 言葉を書き留めていた彼女の手が、ぜんまいの切れた時計のように止まった。呼吸もなく、瞬きもない。魔法を使っていないのに、彼女の時間だけが止まったかのようだった。おや、とシャイロックも窺うように言葉を止めた。シャイロックが手を伸ばす前に、書き途中の紙の上に、言葉を覚えたての子どものような、たどたどしい声が落ちる。

「……もしかして、その子は、旅をしていました? 鳥籠を持つ……貴族の魔法使いと一緒に」
「おや、お会いしたことが? 彼は名を、クロエと言います」
「やっぱり……!」

 バネが弾けたかのように、止まっていた彼女はぱっと顔を上げた。驚きに硬直していた顔が、興奮と歓喜に赤く染まっている。

「嬉しい! 私がこうしてお店を開けたのも、クロエとラスティカのおかげなんです!」

 流れるような動きで棚からチェック模様の不織布のロールを取り出し、テーブルに大きく広げた。それを切るよりも前に、店の端から端まで踊るように歩いて、赤と紫の花を取り出していく。それに添えるように、白や青、薄紫の花を足したり、引いたり、まるで絵筆を走らせるように彼女の手の中で花が束ねられていく。

「私のお店を選んでくれて、本当にありがとうございます。もしかしたら二人は、私のことなんて、忘れているかもしれないけれど……クロエのために、大切に作りますね!」

 大輪の夏の花のような笑顔を残して、彼女はシャイロックに背を向け花に向き合い始める。小さくて華奢な、まだ少女の面影さえ残る背中に、シャイロックは人知れず微笑んだ。
 運命の女神の指先に、花を添えるように。


 *


 シャイロックの話を聞いたクロエの頬は、ブーケと同じ、あでやかな赤に染まっていく。朝露を浴びた花のように瞳をきらきら輝かせて、その瞳を細め――懐かしい友人と会った時のように、笑った。




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オーエンと猫と誕生日

 ドアの軋む音で目が覚める。顔を上げると玄関を抜けていく、カインの長い髪が見えた。やだ、いけない、寝過ごしてしまったわ。ここのところ、お日様がお寝坊するんだもの。魔法舎の誰よりも早く起きようと思って、昨日のうちにこっそり忍び込んでいたのに。
 こうしてはいられないわ。私はすぐに四本足で立つ。窓に嵌めこまれたステンドグラスが、まだ眠たげな朝焼けに照らされてきらきら光っている。まるで雨上がりの森の中みたい。きっとお日様が高くなれば、玄関ホールをこの若草の色に染めるのね。
 赤いカーペットのかかった階段を駆け上がる。これを汚さないように、昨日はきちんと毛繕いをして眠ったわ。カナリアがよく掃除をしているから、お家の中は汚しちゃいけないって知っているの。それに、こんなに静かな時は、足音を立ててはいけないのでしょう? カインとレノックスはいつも、朝早い時間はそうっと出ていくから、きっとそうなんだと思うわ。静かに歩くのは、私、得意なのよ。えらいでしょう。
 目的地を定めた猫は、立ち止まったりなんてしないの。だってここには鳥の歌も猫じゃらしの誘惑もないものね。私が目指すのは一番上の五階。何回も繰り返す階段も、私の足の前には大したことないわ。
 そして、五階まで階段を駆け上がった時。私が行きたかった場所、その部屋の扉の前に、誰かが立っていた。
「……あ」
 その人――賢者様は、私を振り返った。視界の端に私の尻尾が映ったみたい。賢者様は目を丸くしたあと、へにゃっと顔を緩めて、私に目線を合わせてしゃがみこんだ。
「オーエンに会いに来たのかな……そうだったら、一緒だね」
 囁くような、小さな声。ここにいる誰をも起こさないように。そっと私の頭に賢者様の手が触れて、ゆっくり撫でてくれる。その包み込むように優しい感触が心地よくって、一声鳴きたかったけど、我慢した。だって賢者様が静かにしていらっしゃるんだもの、私も良い子にしないと。喉が鳴っちゃうのだけは我慢できないけど、どうか許してね。
 私を見つめる賢者様の目は、いつもみたいに垂れ下がってはいるけど、なんだかどこか、寂しそう。いいえ、不安なのかしら。人間の言葉を喋れない私に、賢者様の言葉がぽつぽつと降ってくる。
「今日は大切な日で……こっそりいろいろ準備をしたんだけど、オーエンが喜んでくれるか、少し自信がなくて。まだこんな時間なのに、つい来ちゃったんだ。オーエンが起きる時間まで、もう少しあるのに……」
 ええ、知ってるわ。あの人が起きるのはもう少し後なことも、みんなが準備していたことも、この日を大切にしていたのも、賢者様が少し不安そうなのも、全部ね。
 でもね、ごめんなさい。
「あ、あれ?」
 賢者様や、魔法使いのみんなのように、素敵な贈り物を準備するなんてできない。
 だから――せめて一番だけは、私がもらいたいのよ。
 優しい賢者様の手を退けて、私はその扉に頭をこすりつける。それが魔法の合図。まるで泥んこのように扉が柔らかくなって、賢者様の驚いたような息の音を尻尾で聞いた。
 私は、私の約束を果たしにいく。
 にゃあん、と一声。あたたかそうな毛布に包まれた彼が、鬱陶しそうに身じろぎするわ。いつもはもう少ししゃきっと目を覚ますけど、今日は随分と早いから。眠たげにとろんとした目がかわいらしくって、私はたまらなくなる。苛立ちさえ浮かぶ目元だって、ちっとも怖くなんかないわ。

「……なんだ、お前か。随分早くない?」

 ええ、そうね。そうかもしれないわ。だけどうかうかしていたら、とびきりの一番を取られてしまうから。

 おはよう、おはよう。今日はあなたに、とびっきりの朝を届けに来たわ。
 晴れた朝の陽射し、きらきら光る花の雫、下準備の整った厨房、皆の部屋に眠る贈り物、心配ないのに不安そうな賢者様。
 どれもこれもがとっておき。幸せに満ちた朝なのよ。
 だから、その一番を、私が言うわ。

 ――誕生日おめでとう、オーエン!




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ブラッドリーと子分と誕生日

「エディ」

 ネロの料理を受け取りに来たら、皿よりも前にフォークが差し出された。その先に刺さっているのは、ほかほかと湯気の立つフライドチキンのひとかけら。フォークを持つネロが機嫌良さそうに笑っていたから、そのまま遠慮なく一口でいただいて、いち、に、と噛む。肉汁が舌に触れた瞬間、思わず俺は目を見開いた。

「――うまっ! なんだこれ、お前、こんなに料理うまかったか!? あっいや、うまいのは知ってるけどよ、ここまで……」
「ははっ、本当にお前はいつもいい反応してくれるよな。味見させんのに一番いいや」

 ほどけるような柔らかな肉には味が十分に沁み込んでいて、噛むたびに深みのあるスパイスの風味が口の中に満ちた。衣はざくざくと香ばしく音を立て、胡椒がよく効いている。こいつの作る料理はいつだって美味いが、このフライドチキンは別格だ。機嫌の良さにも納得がいく。

「普段は使えない、市場だったら目玉飛び出るくらい高ぇものを思いっきり使ってんだ。うまいだろ?」
「こんなうまいの食べたことねえよ……! ボスだって絶対喜ぶ! こんなうめえものが出る誕生日なんて……」
「そうじゃねえと」

 ネロの目は俺からチキンへと移る。網の上から皿へと移す、その手つきの良さが俺の手とは違うことを思い知らされる。同じように宝を盗み、奪う手であることには変わりなくとも、こいつの手はそれだけじゃない。こうして、誰かを幸せにできる手だ。

「ボスはいっつも無茶するから。もう一回食べてえと思わせるようなもんを、こういう時に用意するんだ。また絶対帰って来たいって、思わせてえからさ」

 ――だから、もあるんだろう。ボスがこいつに目をかけているのは。
 こいつの言う通り無茶ばかりするボスの隣には、こんな風に、ともすれば臆病にも見える慎重さをもつ奴がいた方が良い。俺だけじゃなく、多くの奴がそう思っている。だから。

「それにはネロ、お前も帰ってこないとだぞ」

 ネロはそう言う俺を見て、ぱちぱちと瞬きをした。そう言えばそうだな、と間の抜けた苦笑いを浮かべる肩を、軽く小突いてやった。


 来年もその次も、百年後も五百年後も千年後もずっと、こうしてボスの誕生日を祝っていたい。
 ボスもネロも、俺も、今いる仲間たちも揃って。
 いつか北の頂点に立つボスの下で、その日を迎えられることを願っている。




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ファウストと人間と誕生日

「もうこの時期か。そろそろファウストの誕生日だな」

 そう嬉しそうにアレク様が仰ったのは、年の終わりよりもさらに半月ほど前。示された日の、一ヶ月ほど前だった。


 *


 家族で酒場を営んでいたという男に頼まれ、薬師の家から来た娘に習い、俺たちは森からハーブをかき集めた。男はハーブを受け取ると、これでハーブワインが作れるよ、と嬉しそうに笑っていた。花屋の息子の知識を使い、前線に出る武人の俺たちが力を合わせ、ぽぷり、とかいう洒落たものも作った。
 戦火の中、物資は足りないものだらけで、まともな祝い品など用意できやしない。その中で俺たちはそれぞれの知恵と力を合わせ、あの方に献上できるものを精一杯用意した。その点、魔法使いの奴らは羨ましい。こんな苦労をしなくたって、呪文ひとつで麻袋を綺麗な布に変えてみせる。……まあその力を借りて、ぽぷりを入れる袋を用意したんだが。
 しかし、だからこそ、魔法使いの連中には負けたくない。綺麗な包装もリボンもないが、森の中に入れば花が咲いている。色付いた大きな葉が光っている。この手と頭にある力だけでも、あの方のお祝いができるのだと示してやりたかった。人間と魔法使いが共に生きる国を、アレク様と築いてくれるひとだからこそ。魔法も金もなく、泥と血で汚れた手でも、あなたのために何かを作ることはできるのだと。
 ――とはいえ、ハーブワインもぽぷりも、ありあわせで作った質の悪いものだ。それでもきっとあの方は、微笑んで受け取ってくださると信じたかった。

「なあ、レノックス」

 キャンプに焚いた火を囲みながら、俺は隣の男に話しかけた。こいつは魔法使いでファウスト様の従者だが、アレク様の作戦もあって、俺たちの部隊を率いることも多かった。

「ファウスト様は、喜んでくださるだろうか。生き延びるための物資しかない中、あんなものしか用意できなかったけどよ」

 これからアレク様が、ファウスト様を連れていらっしゃる。宴のちょっとした準備が整うまでの、時間稼ぎをしてくださっている。料理が得意な連中が支度をするのを見ながら、火から離れたところに置かれた贈り物に目を向けた。
 魔法使いの中で、俺が一番気軽に話しかけられるのがレノックスだった。こいつはファウスト様の従者でもあるから、こいつが頷いてくれれば、ファウスト様がいらっしゃる瞬間も不安なく迎えられる気がした。しかし。

「ああ。あの方はきっと喜ぶさ」

 俺は知っている。こいつは必ず、頷いてくれることを。焚火の灯りに照らされ橙色に染まった顔で、レノックスは微笑んで俺を見ていた。

「お前たちの思いが、あんなに込められているのだから」

 ああ、そうだ。俺たちが準備していたことも、どうにもできなくて魔法使いに協力を仰いだことも全部知っているこいつは、そういって頷いてくれるのだ。
 ――そして。遠くのどよめきの向こうからゆっくりと、銀髪の方に誘われるように歩いてくるあの方も。
 俺たちのどんな不器用な思いも、微笑みと共に受け止めてくださる。
 そう思えるから、俺たちはここにいる。




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ミスラとチレッタと誕生日

 誕生日を訊かれたので、知りませんよ、と答えたら、彼女は笑って「だろうねえ」と言った。
 魔道具と一緒に呪文を唱えたあと、手のひらを地に向ける。はらはら、と降り始めたばかりの粉雪のように、何かとても小さなものが落ちていった。チレッタはもう一度俺を見て、それに魔力を注ぐように言う。疑問はあっても、拒絶の理由にはならない。彼女は裏表のない魔女だった。だから深く考えることもなく、言われるがままに呪文を唱えた。すると、そこから突然芽が出て、あっという間に茎が伸びた。まるで吹雪のような速度で、それはどんどん背丈を伸ばし、鈴のように蕾を膨らませ、花を咲かせる。咲いた花は下に向いた二枚だけが大きな、変わった形の白い花だった。
 チレッタはそれを見て、機嫌よく鼻を鳴らした。

「二月八日だ。この花が咲いたってことは、ミスラ、あんたの誕生日は二月八日だよ」

 冬の中でも一番寒さの厳しい時期。凍えるような寒さは、まるで世界の全てが敵になって、一人きりになってしまったような気さえする。だけど太陽の気分次第で、春みたいな陽射しを見せることもある。そんなふうに強くて厳しくて、気まぐれな時に生まれたんだね。
 彼女はそう言って、また笑った。まるで彼女自身が、そんな春の兆しみたいだと思った。

「贈り物を考えておかなきゃ。何が欲しい?」
「はあ……くれるんですか? それが欲しいです。あなたの魔道具」
「あはは。それはまだ駄目」


 *


 聞き飽きるほどの祝福の言葉を浴びて、あの日のことを思い出した。千年以上も前のことなのに、よく覚えているものだと感心する。
 魔法舎に来てから、あの花のことを知った。元は南の国に咲く花で、薬草としても使えるのだと教わった、その時にも思い出した。思い出しただけで、彼女の息子に伝えたりはしなかったのだが。
 ――思えば、あの日欲しかったものは今、この手の中にある。
 だけどあのひとは、もうこの世にいない。ただ、

「ミスラさん、鹿肉っておいしいんですね! ネロさん、なんでも素敵に料理してくれるから、すごいなあって思うんです。ああ、口にソースがついてますよ。今拭きますから、じっとしてて……」

 似たような花の匂いだけが、残っている。





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ムルとパティアと誕生日

「ムル」

 海の上に一番星が輝く時間だった。橙の絵の具を垂らした群青に、螺旋階段が染まっている。国一番の巨大な望遠鏡はその一番上にあった。それにぴたりと恋人のように寄り添っていたそのひとは、名を呼ばれてゆっくりと振り返った。愛しいものとの逢瀬に水を差されても、ムルは気分を害した様子もなく、名を呼んだ女性に微笑みかけてみせる。

「やあパティア。こんな海風が当たるところまで来て、大丈夫なのかい。身体を冷やすのは良くないよ」
「……まさかムルに、そんな真っ当なことを言われるとは思わなかったわ」

 パティアは呆れたように、それでもどこか嬉しそうに小さく笑った。ムルが指を振って椅子をパティアの元へ動かすと、感謝の言葉を述べてから腰かけた。ふう、とついた溜め息には疲労が滲んでいたが、それでもパティアは緩やかに、穏やかに微笑む。

「大丈夫。体調も安定しているし、少し出歩くくらい平気よ。今日はあなた、ここに来ると思って」

 パティアは細長い箱を手にしていた。金箔で名の書かれたそれは、昨今の西の国で流行しているブランドのワインだった。庶民には手出しできない程度には値が張るそれを、パティアはムルに向かって惜しげもなく差し出した。

「誕生日おめでとう、ムル。お酒に詳しいお友達がいるのでしょう? 良いようにしてもらって」

 それを、ムルは表情を変えないまま、短い感謝の言葉とともに受け取った。なんの驚きも喜びもない、無愛想で無遠慮な受け取り方だった。しかしパティアも微笑んだまま、そんなムルを見つめている。彼の反応など、はじめからわかっていたように。
 やがて彼女は目を伏せて、自身の腹に手を添えた。

「あなたへの贈り物、ずっと考えていたの。今までは研究と天文台の維持で手いっぱいで、そんなことを考える余裕はなかったけれど。金銭で買えるものやありきたりな言葉で喜ぶほど、あなたは単純でわかりやすくない」

 既にワインを贈りながらも、彼女はそう口にする。彼女、そして彼女たちにとっては金で買える“物”は祝福を示す形式であるだけで、そこに深い意図を含ませられない。
 人智を超えたものに恋をした。片方は今も、そしてこれからもずっと恋焦がれ続ける。
 その途方もなさも、やるせなさも、類稀なる幸福も興奮も知っているからこそ。パティアは腹を撫でて、微笑んでみせる。もうじきこの世で産声をあげる、命を宿した、大きく膨らんだ自分の身体を。

「だから、この子の名前を付けて、ムル。夫にも了承を得ているわ。世紀の天才、ムル・ハートに名付けられる栄誉をこの子に。そして、一人の人生に、自信の言葉で名付ける刺激をあなたに。どうかしら」

 ――彼女の言葉を受けて、ムルの唇は三日月のように弧を描いた。腰かけた彼女の足元にそっと跪いて、その手の甲に、星の光が注ぐようなささやかなキスを落とす。
 パティアを見上げる鮮やかなグリーンの瞳は、爛々と、夕刻であることを忘れるくらいの輝きを放っていた。獲物を仕留める前の猫のような、興奮と高揚に満ちている。

「それが君の祝福と友愛の印だというのなら、喜んで受け取るし、捧げよう。パティア、やはり君も西の女だな」

 僅かに欠けた月の下、友人たちは笑い合う。凍えるような冬の海風の下、あたたかな呪文が波飛沫に触れた。
 絢爛な科学の光から遠い、波の揺らめきが歌う場所。ひとつの名前の誕生を、旧い光と風が見ていた。




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