幸福の村の魔法使いの話(オズ)(前提:機織りのバラッド)
世界を知らない貴族の末娘の話(ムル)
革命軍の魔女の話(ファウスト)
革命軍の人間の話(レノックス)
山羊と暮らす村の少女の話(オーエン)
酒場の店主に一目惚れした魔法使いの話(シャイロック)
盗賊団の魔法使いの話(ブラッドリー/ネロ)
北の傲慢な魔法使いの話(スノウ/ホワイト)
北の愚かな魔女の話(フィガロ)
チレッタの旧友の話(ミスラ)
ブランシェットのメイドの話(ヒースクリフ/シノ)
雲の街の子ども達の話(ミチル)
教団の信者の話(リケ)
小鳥にされた貴族令嬢の話(ラスティカ/クロエ)
騎士団員の話(カイン)
王妃の侍女の話(アーサー)(前提:橋のラプソディ)
雲の街の教師の話(ルチル)

いつ訪れるかもわからない、誰かの話(***)















 僕は頭を下げたまま、膝を伸ばして立ち上がる。重たい衣擦れの音が、みんながこの短時間で、それでも丹精を込めてこの美しい衣装を作ってくれたことを僕の根幹に知らしめた。隣を見て、弟と視線を交わす。同時に、袖の長い衣装を見せつけるように力強く振ってみせた。雲で覆われた夜だというのに、自分の銀の髪は魔法で照らされて、まるで月の光を浴びている気分になった。
 ――この世界は吞み込まれようとしている。雷を連れた恐ろしいものが、世界を支配するために。
 山の向こうの街が消えた。丘の向こうの村が焼けた。川の向こうは平野になった。
 だけどまだ、この村は在る。
 “恐ろしいもの”を、いま、目の前にして。


 *


 僕たちの村には何もなかった。よその技術を使った織物と、村いっぱいに広がる麦畑でなんとか生計を立てていた。
 そこで魔法使いとして生まれたけれど、少しばかり珍しがられるだけで、他の子たちと変わりなく育ててもらったと思う。人間の弟もいるけど、他の家のきょうだいと特別違いはなかった。同い年くらいの姉妹が近くに住んでいて、小さい頃はよく四人で麦畑を縫うように遊び、疲れたら姉のエマが笛を吹いて、妹のアリスが琴を弓で弾く、そして僕と弟がそれに合わせて踊る。そんな日々を過ごしていた。大きくなってそれぞれに仕事――綿や麦の収穫や糸紡ぎ、染色などが主だった――をするようになっても、たまに夜に集まっては音楽と踊りを楽しんでいた。魔法使いは僕だけだったけれど、たまにそうであることを忘れそうになるくらい、何もかもが平穏だった。魔法使いらしいことといえば、たまに村にやってくる旅の魔法使いに使い方を教わって、小さな怪我を治したり、壊れたものを軽く修理するくらいだった。
 ――そんな、ある日のことだった。怯え、疲れ、震える旅人が、この村にやってきたのは。
 山の向こうの街が消えた。丘の向こうの村が焼けた。川の向こうは平野になった。
 この村もきっと、何もしなければ、同じ道を辿る。
 そんな彼が、一晩だけ村で過ごして、逃げるように南に向かって行った時。村のみんなは「ノア」と僕の名前を呼び、「どうかこの村を」と縋るようにやってきた。だけど、僕にできることは何もない。言えることは、一つしかなかった。

「……慈悲を乞うしか、ありません」

 みんなも、本当はわかっていたんだと思う。そんな、世界を呑みこもうとする怖くて恐ろしいものを相手に、僕が立ち向かえるはずはないって。
 それでも一縷の望みをかけて、不思議な力を使う存在に解決策を求めたんだろう。だけど、僕に言えることは一つしかなくて――一つだけは、あった。

「僕にはこの村を守る力も、恐ろしいものを退ける力もない。だけど、その“恐ろしいもの”が、もし――僕と同じ魔法使いなのであれば」

 冷え切った指先が勝手に震える。額に冷や汗が滲んでくる。それでも目線は落とさなかった。僕を頼ってくれた村のみんなをぐるりと見回して――最後に、一番近くにいてくれた、エマとアリス、そして弟のロックを見る。

「全面降伏の意を示し、慈悲を乞う。その手段はあります。――エマ、アリス、ロック。そして他の皆さんも」

 自然、エマたちにみんなの視線が集まった。思わずたじろぐ三人に申し訳なくなったけれど、三人とも、僕を見つめ返してくれている。だから僕ははっきりと言いきった。

「力を貸してほしいんです」


 *


 僕の考えを聞いて、みんなそれぞれの役割にとりかかってくれた。川向こうが平野になったのだ、“恐ろしいもの”がやってくるまで時間はない。
 僕が言ったのは、こうだ。――魔法は、心の状態で効果が変わる。心が揺らいでいると魔法は安定しないし、落ち着いていれば魔法もそれに呼応する。だから僕は、エマたちの音楽を聴いているときと、それに合わせて踊っているときが好きだ。心が研ぎ澄まされて、何かとても清らかなものが身体を満たす気がするから。人間と同じように暮らしていて、自分が魔法使いであることを忘れそうになっても、この瞬間のたびに思い出すくらい。
 旅の魔法使いに魔法を教えてもらった時、お礼の代わりにエマたちに協力してもらって音楽と舞を贈るととても喜ばれたものだ。「魔法使いはみんな、美しいものが好きだからね」と言われたことがある。
 なら――魔法使いが愛する“美しいもの”を献上すれば、慈悲を乞えるかもしれない。
 これが上手くいくかどうかは、誰にもわからない。献上したところで拒絶されるかもしれないし、受け入れられたとしてもその研ぎ澄まされた魔力で村を焼かれてしまうかもしれない。そもそも、相手が魔法使いかどうかもわからない。
 だけど、何もしないより、何かできることをやった方がいい。それはみんな、同じ気持ちでいてくれた。
 針仕事ができる人たちは出荷前の倉庫から一番美しい反物を取り出し、惜しみなく広げて鋏をいれた。一番上等な衣装を僕たちに仕着せるためだ。力自慢の人たちは湖に行き、小舟を徹底的に補修した。僕たちが湖の上で舞いたいと言ったからだ。子ども達は花を摘み、小舟を飾りつけた。何事かはわからずとも、大人たちと同じことができて楽しそうにしていた。
 そして僕たちは湖のほとりで、楽器と舞の練習を繰り返した。旅芸人の方々はおたまじゃくしが跳ね回っている紙を見ながら演奏していたけれど、エマたちにそんなものはない。幼いころから繰り返し、アレンジを繰り返しながら奏でてきた曲を、二人でアイコンタクトを重ねながら奏でていく。だけど。
 二人とも、いつもと違った。音が硬く、伸びない。周りがせわしいからというのもあるだろうけれど、それにしてもまるで金属のような音だった。ロックもいつものような四肢のしなやかさがない。そして自分も、手足が冷えてどうにも動かない。
 だけど当然だった。これは、村の存亡をかけた一大事。緊張するのは、当たり前だ。
 僕は一つ深呼吸をして、シュガーを四つ作り出した。一つを自分の口に放り込んで、残りを三人の前に差し出す。突然練習をやめた僕に、きょと、と目を丸くする三人の前で、僕は自然に微笑むことができた。自分のとはいえ、シュガーのおかげで。

「エマ、アリス、ロック。急に巻き込んでごめん。慈悲を乞うとは言ったけど……どうかみんなはいつも通り、楽しんで奏でて舞ってほしい」

 三人の額には汗が滲んでいる。きっと僕も同じだろう。四人だけのちょっとした楽しい夜を、“恐ろしいもの”の前に差し出す――なんて無茶を言った僕を、みんなひとかけらも責めずに頑張ってくれている。それが途方もなく申し訳なくて、それと同時に、嬉しく思う。

「僕はエマとアリスの音楽と、ロックとの舞が好きだ。村を救うためとか、赦してもらうためではなく、いつものように、楽しんで奏でてほしい。そのほうが――絶対に、いい夜になる。いつもの僕らの夜のように」

 そう言うと、じっと僕を見ていた三人は顔を見合わせた。それから、一番前向きなアリスを中心に笑いが広がり始める。そしてそれぞれに僕のシュガーを手に取って、口に放りこんだ。僕の魔力が彼らの口でほどけて、綻んでいく。最初に口を開いたのはエマだった。

「そうね。いつものように楽しみましょう!」
「駄目だったとしても、いつもみたいな夜に死んじゃうなら、幸せかもしれないし!」
「ちょっとアリス、物騒だよ……でもそれくらいのほうが、気楽に舞えるかもしれないな」

 そういって僕らはけらけらと笑い始める。笑いながらアリスが鳴らした琴の音は伸びやかに響き、雲一つない空に吸い込まれていく。
 今宵の空は、きっと美しいだろうと思った。


 *


 夜の闇の向こうで、稲光が走る。星が瞬いていた夜空に突然暗雲が立ち込め、不穏な風が吹き始める。
 川の向こうから雷を背負って、何かがやってくる。それは二つの人影だった。僕らより少しだけ背が高いだけの、人の形をした“恐ろしいもの”。
 雷鳴が轟く。村を見守り続けていた傍らの森に、稲妻が落ちる。――それが合図。
 その稲妻の光が消えないうちに、呪文を唱える。湖のほとりに明かりを灯して、僕とロックが乗る小舟を照らした。
 小舟の上で頭を限りなく下げ、降伏の意思を姿勢で示す。ちらり、とエマたちに視線を送ると、エマとアリスは同時に頷いた。
 ――それからは、いつもの夜と変わらない。魔法で音を増幅したとはいえ、伸びやかで澄んだ二人の音が暗く淀んだ夜の闇に響き渡る。
 頭は下げたまま、膝を伸ばして立ち上がる。重たい衣擦れの音が、みんながこの短時間で、それでも丹精を込めてこの美しい衣装を作ってくれたことを僕の根幹に知らしめた。隣を見て、ロックと視線を交わす。同時に、袖の長い衣装を見せつけるように力強く振ってみせた。雲で覆われた夜だというのに、自分の銀の髪は魔法で照らされて、まるで月の光を浴びている気分になった。
 練習したとはいっても、エマたちの音楽と同様、幼いころから自由気ままに踊りながら、アレンジを重ねてきた舞だ。ずっと共にいる僕らの呼吸を邪魔するものは、この世界に誰もいない。エマとアリスの音楽は、さらに呼吸を滑らかにする。
 そこでふと。二人の音楽でさえ、何も邪魔されていないことに気付く。あれだけ不穏に呻き、鳴り響いていた雷鳴は、彼女たちの音楽が始まってから一度も鳴っていなかった。
 舞を続けながら、湖の向こうに立った“恐ろしいもの”に、思わず視線を向ける。恐怖よりも、好奇心が勝っていたし、聞こえない雷鳴の確証が欲しかった。
 そこでは、大きくて立派な杖を持った美しいひとが、青髪の穏やかなひとと一緒にこちらを見ていた。遠くとも、瞳の色さえわからなくとも、それはわかる。
 僕たちを見ていた。聴いていた。
 恐ろしくなどない。
 僕らの音楽と舞に足を止める――僕らと同じ、いきものだった。


 *


 その日、村は眠らなかった。
 美しいひとたちは去り、雷鳴は森に落ちたのを最後に二度と聞こえなかった。舞を終えたあと、踵を返した彼らの姿が森の向こうに見えなくなったところで、固唾をのんで見守っていたみんなの歓声が爆発した。再び星空を映し出した湖を囲み、村中の酒と食べ物を持ち寄って、朝まで続く宴が始まった。
 エマたちと一緒に中心でみんなの感謝を受け、食べ物を勧められながらも、僕はどうしてもあの方のことを考えていた。
 聞けば、エマもアリスもロックも、あの方の姿は見ていないのだという。そんな余裕なんてなかった、と信じられないものを見るような目で言われた。村のみんなも誰も話題にしないし、彼女たちと同じだろう。思い返せば自分自身に、どこにそんな余裕があったのかと問いたくもなる。
 でもどうしても、あの方の姿が頭から離れない。エマたちの音楽を聴き、僕らの舞を見ていたあの方の顔は、とても他の街や村を滅ぼしたとは……雷と共に来たとは思えないほど穏やかで、優しくさえ見えた。
 ――あの方はどうして、世界を征服しようとしているのだろう。
 一人じゃなかったし、身なりも綺麗だった。そして何より、何をも寄せ付けない強さが確かにあった。
 なのに、どうして。世界を滅ぼさずとも、欲しいものは何でも手に入りそうなのに。
 ……答えはもう、見つからない。
 きっと明日、僕らの音楽と舞を眺めた同じひとが、今度は違う場所を焼くのだと思う。

「……本当に、世界が欲しいのかな」

 隣にいたエマだけが、思わず零れた独り言を聞いて振り返った。ノア? という呼びかけに慌てて、なんでもない、と笑ってみせる。
 滅ぼされる寸前だった村が、誰も犠牲者を出さずにいられて、余計なことを考えているのはきっと僕だけだろう。水を差すようなことを、今言うつもりはない。だけど。

 僕にはそう、見えなかったんだ。




オズ ムル ファウスト レノックス オーエン シャイロック ブラッドリー/ネロ スノウ/ホワイト
フィガロ ミスラ ヒースクリフ/シノ ミチル リケ ラスティカ/クロエ カイン アーサー ルチル ***
▲目次へ














 月のない夜だった。
 私の部屋に与えられた、たった一枚の小さな窓。白の窓枠で区切られた空では、いつもは月の光に隠れる星々が、まるで羽を伸ばすように瞬いている。カーテンは今日に限って、いつもしっかり仕事をするメイドが閉め忘れていった。
 不揃いな瞬きは、まるで音楽のよう。たくさんの楽器が集まって違う旋律を奏でて、なのに美しい調和のとれる素晴らしい音楽。それを瞳から聴いているみたいで、不思議で、胸がマシュマロのように弾んだ。飴玉に囲まれて過ごすような贅沢な時間。春先の野花のような小さな星も懸命に光るものだから、その輝きから目が離せなくなって、身体を起こしてじっと見ていた。
 そんな私の視界の中で、星空が翳る。紺碧の中に瞬く星々の中に、この世界の何かが浮かび上がった。
 星々がその影に隠れ、瞬きが覆い隠される。影はどんどん近づいてきて――影が大きくなって、多くの星を呑み込み始めた。のろまな私は、それが“ここ”に向かっていることと、ひとのかたちをしていることに気付いたのはほぼ同時で――、悲鳴を上げるよりも前に、鍵が掛かっていたはずの窓が開いて、それは部屋に飛び込んできた。
 だけど決して、事故や偶然ではなかった。それ――“箒に乗った魔法使い”は、優美な姿勢で、足音さえもなく箒から私の部屋に降り立った。まるでしなやかな猫のように。

「初めまして、ビオレッタ様。ああ、どうか声を上げないで」

 あげそこねた悲鳴が、再び舌の上にせりあがってきた時。彼の指先が唇に押し当てられて、また私は声を呑み込んでしまった。
 夕闇の地平線の色をした髪と、星の輝きのようにあざやかな緑色の瞳。大きな三角帽子と長いローブの裏側には、夜空がそのまま縫い付けられたかのような煌びやかな世界が広がっている
 薄い唇が弧を描いて、鮮烈な瞳が細められる。獲物を狙う猫のように。なのに、唇から零れる吐息にも似た声は、砂糖菓子のように甘ったるく。

「あなたの魔法使いは、今宵、あなたのためだけにやってきたのです」

 私の目を奪う。心を奪う。
 まるで、魔法みたいに。


 *


 小貴族の12人目の子、7人目の末娘として生まれた私が生きる道はひとつしかない。
 ふた回りも年の離れた大貴族の、7番目だか8番目だかの妻。若い娘に目がないレイス家の当主様は、次々に妻を娶ってはそれぞれの家に莫大な金を支援している。姉様たちはそれぞれ、我が家の権力を高めるために相応しい家へと嫁ぎ先を決めた。あとはいくらあっても困らない金を得るために、私がそこに嫁ぐだけだ。来年、18歳になったら、私はすぐにレイス家に送られることになっている。
 生まれた時から決められた人生。だから社交界どころか、家の敷地から出たこともなかった。外に出て他の男にうつつを抜かし、レイス家との契約を反故にしないために。
 私の世界はあの窓から見える切り取られた空と、家の小さな庭園だけ。絶望もなければ喜びもない。同年代のメイドとお喋りをする瞬間にだけ花が咲く、それが私の人生。
 ――そんな私の前に突如現れた、宝石の目をした魔法使い。頭から稲妻が落ちてきたような衝撃だった。
 魔法使いはムルと名乗った。限られた読書しか許されていない私でもその名を知っているくらい、有名な学者だ。最初は偽物か同名の別人かと疑ったけど、すぐに本人だと思い知らされた。

「あなたが不思議に思っていることを教えて。敷地の外に出たこともないのでしょう。私が知っていることでしたら、何でも教えて差し上げましょう」

 真理を見ているかのような、心理を見透かすかのような、そんな声だった。この時の私はまだ疑いの気持ちが強かったからこそ、試すようにそっと、小さな声で彼に尋ねた。

「……どうして、花は美しいの?」
「ふむ、最初から哲学的な質問だ。さすが、ビオレッタ様は見識が深い。花は別に美しくあろうとなどしていないのです。生殖に必要なのは虫や風で、虫や風は色や形など大して認識していませんからね。ですからそれはあなたの心が、花を美しいと感じているのです。あなたの心が美しいことの証左ですよ」

 躊躇いのない言葉だった。川が流れるような滑らかさだった。その声の流麗さだけで、目の前にいる彼が確かに、あの世紀の天才――ムル・ハートなのだと突き付けられた。
 その途方もない事実に竦んでいると、廊下からがたりと物音がした。彼はそちらに一瞬の視線を送ったあと「ああ」と切なげな溜息をついた。そしてするりと、どこからか箒を取り出してその手に握る。

「いけない。あなたといると時間を忘れてしまいそうだ。今宵はここまで」
「あっ……」
「また会いに来ても?」

 それに腰かけながら、魅惑的な眼差しで私を見据える。
 首はまるでからくりのように、勝手に頷いた。彼は楽しげな笑い声をひとつ残して、窓の向こうへと飛んでいった。
 ――それが、私たちのはじまりの夜。
 その日から彼は猫のように気まぐれに、犬のように懐っこく、梟のようにひっそりと、私の部屋を訪れるようになった。


 *


「こんばんは、ビオレッタ様。今宵もあなたにお会いできて、光栄です」
「……私も、会いに来てくれて嬉しいわ。いつもメイドしか話し相手がいないから」
「私で良ければ、いつでもあなたの話し相手になりましょう。今日は聞きたいことはありますか?」
「ええ、ずっと考えていたの。ねえ、どうして花はあんなに様々な色があるの?」
「そのことを語るにはまず、どうして我々の目は様々な色を捉えるのかについてお話をする必要がありますね。まず、どうして空が青いのか、夕暮れがどうして赤いのか――」

「こんばんは、ねえムル! この間の話の続きを聞かせて?」
「ええ、途中になっていましたね。前回は色を捉える仕組みについてお話しました。花の色ですが、花はそれぞれに“色素”というものを持っており、これがそれぞれに反射する光の色が違うのです。ですから――」

「ムル。花が様々な色をもっている仕組みはわかったわ。じゃあどうして葉っぱはみんな緑なのかしら?」
「そうですね。まず植物の葉の役目と、花の役目についてお話いたしましょう。花は植物の生殖器官であり、虫や風によって生殖をおこなう話は軽くいたしましたね。ですから花は虫を誘い出すために身を飾る必要があり、色素を持つのもその手段のひとつであると考えられています。しかし、葉の方には生殖に関わる組織がありません。葉の役目は――」

「ねえ、見てくれる? ムル。庭の手前から二番目の花壇。あの花は昼に見ると堂々と開いているのだけど、夜になるとあんな風に閉じて俯いてしまうのよ。どうして?」
「ああ、ガザニアですか。雨の日にも見たことはありますか? 曇りの日や、気温の低い日は? ビオレッタ様は聡明な方だ。ぜひ観察して、考えてみて。きっと胸が躍り、血が沸き立ち、夢のような時間が過ごせますよ。考える、研究するとはそういうことです」

「ムル! 観察してみたわ。曇りの日も雨の日も開かなかった。ここ最近暑いから、気温の低い日は見られていないけれど、長く咲く花だからもっと観察してみようと思うの。それとね、時間帯と花が植えてある場所によっても閉じる時間と開く時間にばらつきがあることにも気付いて。もう少し観察してみようと思うのだけど――」
「素晴らしい。たった数日の観察でそこまで多くのことに気付きましたか。やはりビオレッタ様は聡明な方だ。どうです? 観察と研究は。楽しく、高揚し、興奮したでしょう?」
「ええ、とっても! ありがとう、ムル。あなたと出会わなかったら、こんな素敵なこと、知らずにいるところだったわ!」
「あなたのその表情が見られるなんて、今宵はなんて良い夜だろう。私にとっても夢のようです。ああ、ビオレッタ様。あなたに出会えて、私は本当に幸福です。あなたの話をもっと聞かせて。あなたの疑問と、高揚と、興奮を。どうか私に、教えてください」

 *

 その日も月がない夜だった。ムルは猫のように気まぐれで、いつ来てくれるかなんてわからなかったけれど、ひとつだけ、月の見えない夜は決まって私に会いに来てくれていた。だからきっと、今日も来てくれるだろうと思って、ベッドに座って待っていた。
 明日は私の誕生日。18を迎え、贈り物の代わりにレイス家に送り飛ばされるはずの日。だから、彼に伝えたいことがあった。たくさんのことを教えてくれて、学ぶ高揚と知る興奮を教えてくれた彼に。喜びも絶望もなかった私の人生を、まるでキャンバスのように様々な色で彩ってくれた彼に。
 予想通り、ムルは星々を呑み込みながら箒に向かってやってきた。いつものような挨拶もそこそこに、私はムルに駆け寄った。

「ムル、聞いてほしいの。私、明日、あのレイス家に嫁ぐように言われていて……」
「……ああ、ああ、可哀想に……愛らしく聡明な、私のビオレッタ様」

 駆け寄った私の肩を、ムルが優しく抱きしめてくれる。まるで薄いガラスに触れるようにそっと、丁寧な手つきで。

「ですが、心配は無用です。私はあなたの、あなただけの魔法使い。あなたがレイス家に嫁いでも、私はいつでも――」
「そうなの。あなたのおかげで、私、嫁がなくっても良くなったの!」

 彼の腕の中に抱かれながら、ぱっと彼の顔を見上げた。口元が勝手に綻んでいく。目がどうしたって笑ってしまう。こんなに幸せなことが起こるなんて、私、思ってもみなかったから! この事実と感謝を、彼に絶対に伝えたかった。
 私を見下ろして大きな目を瞬かせるムルの前に、ベッド脇に用意しておいたものを突き付けた。早くこれを彼に見せたかった。

「見てくれる? 庭の陽影草が光る時間と、天気、そして月の満ち欠けとの関連性を調べたの。メイドは陽の光を吸収して夜光るって言ってたけど、なんだか違う気がして……そしたら、あれは陽の光じゃなくて、月の満ち欠けと連動していることに気付いたの。それを、ムルが教えてくれた論文みたいに書いて、以前ムルが教えてくださった本を書いた方に送ったら、一緒に研究しないかってお誘いが来たのよ。この花は西の国でもこのあたりにしか咲かなくて、あまり研究されていなかったんですって。だから嫁ぐことはできませんって言ったら、お父様、怒っちゃって! 家を追い出されることになったの!」

 ――こんなことが起こるなんて。敷地から一歩も出たことがないのに、今度は“出ていけ”ですって! おかしくって、笑ってしまう。
 だけど、少し前の私だったら途方に暮れていただろう。自由になるお金もないし、家の外の世界のことなんてこれっぽちも知らない。だけど今の私は違う。

「この方は私の事情を慮ってくださって、旅費も送ってくれたし、私のメイドも一緒に雇うって言ってくださったの。きっと高貴な家の方なのね。メイドもついてきてくれるって言うし、きっと大丈夫よ」

 専属メイドのアンナは早くに両親を亡くし、街を転々としながら働き口を探して、五年前から我が家に住み込みで働いてくれている子だ。私とそんなに年は変わらないけれど、不憫なくらいに旅慣れている。だけど、私にはそれが幸運だったし、アンナも私が家から出て好きなことができることを喜んでくれた。
 だから。今の私が欲しいのは、たったひとつ。

「ねえ、ムル。私を祝福してくださる? この家の敷地を出たことがない私だけど、ちゃんとその方の元に辿り着いて――いつか、あなたと研究できるくらいの力をつけられるように。私、これからもずっと考えるし、研究し続けるから」

 私が突き出した論文を見ることすらせず、ムルはずっと黙ったままだった。真夜中でも輝きを失わないあざやかな瞳は、どこか夢のような美しさがあって、いつも気持ちを読み取れない。
 だけどその時ムルは、ひとつの溜息と一緒に、確かに私に笑いかけてくれたのだ。

「ええ、もちろんですよ、ビオレッタ様。私は魔法使い。あなたの道のりを祝福いたしましょう」

 《エアニュー・ランブル》。この時聴いた彼の呪文を、私は生涯忘れないだろうと思った。今思えば、彼は魔法使いなのに、私に空を飛ぶ以外の魔法を見せなかった。わざとではなくて、機会がなかっただけだと思う。私は魔法がなくとも、彼の言葉のひとつひとつを魔法のように感じていたから。
 ――後になって思えば。ずっと“あなたの魔法使い”といってくれていたムルが、最後にそう言わなかったのには確かな意味があったのだ。
 だけど、世界に足を踏み出していく前の愚かな私は、そんなことちっとも気付けなかった。

 その後。私はアンナと一緒に指定された場所に辿り着き、その研究者――レオナルド様に迎え入れてもらうことになった。レオナルド様は高貴な生まれの方で、私とアンナの生活の面倒を見てくださって、私たちはともに研究に明け暮れることになった。
 だけどムルはもう二度と、私の元を訪れることはなかった。彼が初代所長さんと建てたという未開の天文台にも手紙を送ったけれど、返事は一度もない。私が何かしてしまったかしら、とレオナルド様に相談したら、彼は怒りの表情をして、

「それはムル・ハートの常套手段だ。世間を知らない貴族の子を懐に入れて、研究資金を得ようとしているんだよ。大方、君がレイス家に嫁いだら、レイス家の財産を使わせる予定だったんだろう。君が聡明な子で本当に良かった」

 そう言いながら、最後は優しく微笑んでくれた。
 あの甘い吐息も言葉も全部まやかしだったと知って、私も腹が立ったけれど、ここにこうしていられるのは確かに彼のおかげだった。彼がいなければただ檻のような場所で、喜びを知らず、もしかしたら絶望ばかりを知って生き続けるだけだったかもしれない。

 ――というわけで。彼の思惑を外れて、私は人生を救われてしまったのだ。
 一日の研究を終えて、ふと窓の外を振り返る。今日は新月で、満天の星空が美しい夜だ。
 だけど今日もムルは来ない。それどころかもう二度と、私に会いに来ることはないだろう。
 だから今度は、私が会いに行こう。たくさん研究して、論文を書いて。彼が出席するような学会に行けるように。
 その時には、私にできる限りのありったけの感謝を示して――そして思いっきり、ひっ叩いてやるわ。




オズ ムル ファウスト レノックス オーエン シャイロック ブラッドリー/ネロ スノウ/ホワイト
フィガロ ミスラ ヒースクリフ/シノ ミチル リケ ラスティカ/クロエ カイン アーサー ルチル ***
▲目次へ














 あの時。扉を叩く力強い音を、私は生涯忘れることはないだろう。
 弱り果てた者ばかりが辿り着く、セラの森の最深部。そこにある私の家の扉を叩くのは、それまで弱々しく消えそうな音ばかりだった。
 一体どんな屈強な生き物が来たのかと思いながら、扉を開けると――そこにいたのは美しく精悍な顔つきの、魔法使いの青年だった。真昼時以外は鬱蒼と暗いこの世界の中で、彼の栗色の髪は微かな陽射しを浴びてきらきらと輝いている。それはまるで、祝福のように。夕闇を迎えた夜のような静かな紫の瞳は、迷いなく私を見つめていた。

「突然の訪問をお詫びいたします。森の聖なる魔女、アシュリー」

 弱り果てた者ばかりが辿り着く場所。深い森の最深部。よく見るとその身体は枝葉にまみれ、白い頬には一筋の切り傷がある。彼は一人ではなく、背後に一人、背が高く身体が鍛えられた男――魔法使いが控えていた。

「あなたのお力を貸していただけませんか」

 ――これほどまでに堂々と、したたかに求められたのは、いつ以来だっただろう。
 その瞬間。一陣の風が吹き、森の木々を大きく揺らしていく。太陽の光を隠していた枝葉が揺れ、彼と私の間にまばゆい光が射しこんだ。
 それは本当に一瞬のことで、光は大きく揺さぶられながら再び木の隙間に隠れていったけれど――確かにその瞬間は存在したのだ。
 人間に迫害され、百年間ひとりで生きてきた私に――光が当たる、瞬間が。


 *


「アシュリー」

 調薬用に作られたテントの中。後ろから名前を呼ばれ、振り返った先の姿を見て、私は手にした薬草を置いて傅いた。

「ファウスト様」
「やめてくれ、かしこまってもらいたくて来たわけじゃない。そもそも、君の方が年上だろう」
「でも、レノックスもそう呼んでいるでしょう」
「彼にも辞めるように言ってる。それに君は、彼よりもさらに年上なのに」
「永い時を生きる魔法使いにとって、百年など誤差みたいなものですよ」

 フィガロ様に聞いてみたらいかがですか。そう締めると、ファウスト様は苦虫を嚙み潰したような顔をしていらして、思わず頬が緩んでしまう。年齢の上下なんて些細なもの。年下だとしても、高潔な意志の元に私たちを率いてくださってる方だ。彼を敬わずして、他に何を敬えば良いのだろう。年若く純な魔法使いをからかいたくなってしまうのは、また別問題として。
 フィガロ様にそんな下らないことを聞けるわけがないだろう。そう文句を呟きながらも、ファウスト様はテントの中をぐるりと見回した。床に並んだ木箱、その中に詰められた薬瓶。狭いテントには置き場所も少なくて、木箱はそれぞれいくつか積み重ねられている。綺麗にきっちりと並べるのは私の癖だ。おかげでいつファウスト様がいらしても堂々としていられる。積み上げられた木箱とその中に並ぶ薬瓶を見て、ファウスト様の口からひとつの溜息が零れた。

「すごいな。これを、今日一日で作ったのか」
「眠るまでにもう少し作れます。ファウスト様が皆をお守りくださっているから、治癒薬が減らないんですよ。ですからこうやって、強化薬をたくさん作れるのです」

 求められて向かった軍で、私が頼まれた仕事はこれだった。元々はファウスト様が治癒も担当していらしたけど、軍が大きくなるにつれて手が足りなくなってきたから、万能薬を作る魔女がいるという噂を聞いて私のところまで来てくださったのだという。
 元々私は、セラの森の最奥で薬を作りながら生きてきた。売るためではない。買いに来る客なんていないから。ほとんど研究に近いものだった。しかし、求める者に噂は流れるようで、薬を求めて私の元を訪ねる人間や魔法使いは稀にいた。
 難病に侵された自身や家族、親しい者を救うために、ぼろぼろになりながら私を訪ねる者を邪険にできるほど、世界を憎みきれてはいなかった。
 対価は用意されていれば受け取り、なければそれで良かった。どちらにしても、相応の薬と祝福を授けて帰した。薬を渡しても、道中で死なれては何の意味もないと思ったから。そもそも辿り着くのさえ難しい場所だ。もしも噂が広まったとして、私を訪れるひとは少ないだろうと思っていた。
 それがあんな風に、真っ直ぐで凛々しい眼差しで乞われる日が来るなんて。
 もう他者と不用意に関わるものかと思っていたけれど、あの若々しく鮮烈な瞳に誘われるように頷いていた。
 やがて共に森を出て、彼が人間と共に率いているという軍に合流した。そこで彼が目指す理想、築き上げてきた信頼を目の当たりにして――私も自然に、彼に傅くようになった。彼の理想は世間知らずの綺麗事にも見えたけれど、その綺麗事を、彼は現実にしてくれる。アレク様と一緒なら、必ず。そう思わせられたのだ。
 私が治癒薬を作る分、ファウスト様も戦いの中で存分に魔法が使えるようになり、結果として治癒薬の消費はみるみる減っていった。だからといってあぐらをかいているわけにはいかないので、代わりに身体能力や魔力を向上させる強化薬を作り始めたのだ。軍のみんなが大きな怪我をせず、存分に力を振るえるように。
 ファウスト様は、薬の入った木箱を眺めたあと、す、と私へと視線を下げた。そして、その理知的な瞳を柔らかく細める。

「ありがとう、アシュリー。君は僕が守っているからというが、君の薬で彼らが守られているのもあるんだよ。君がここに来てくれて、本当に助かっている」

 その輝くような微笑みを前に、胸の中が春のような幸福でいっぱいになる。主君が自分を認めてくれた瞬間に、こんな幸福が花開くのだなんて、森の中にいた時には知らなかった。知らないまま、ただただ石になるまで生き続けるだけだった。今となれば、あれは既に石になっているのと何が違ったのだろう。こんな幸福を、仲間と笑い合える喜びを、仲間と労わりあえる温もりを知らないままだった私は。

「感謝を申し上げるのは、私の方です。ファウスト様」

 それでも石ではなかったから、私は今、ここにいる。石のようだとしても、生きて、祝福と薬を授けていたからこそ、彼が私を見つけてくれた。
 昔に住んでいた村で魔女であることが知られ、一緒に暮らしていた家族は私を追い出した。というより、追い出さざるを得なかった。みんなで畑を耕してなんとか暮らしていた村だったから、家族は私を匿っていたら生きていけなかった。反対に私は魔法が使えたから、村を出ても生きていくことができた。だから私は家族の前で大きく頷いて、村を飛び出していったのだ。
 魔法が使えるからという理由だけで、家族から引き離した人間を憎悪した。だけどずっと謝りながら泣いていた家族のことを、憎むことはできなかった。一人で暮らすのは最初は寂しかったけれど、時間がそれを忘れさせてくれた。私にはこれが良いのだと、そう思うようになっていた。
 だけど、そうではなかったのだと――ファウスト様のおかげで、自分の気持ちに蓋をしていたことを知ったのだ。

「人間と暮らすことを諦め、孤独のまま生きていくだけだった私のことを、ファウスト様が見つけてくださった。他者と声を交わすことや触れ合うことが、これほどに温かく満ち足りたものだったと、思い出すことができたのです」

 私はもう一度、深くこうべを垂れる。この身を全て、彼に捧げることを示すために。

「あなたとアレク様の大義のために、どうぞこの身を存分にお使いください。その為であれば、喜んで石にもなりましょう」

 そう、決意を示したというのに、ファウスト様は膝をついて優しく私の肩に触れた。顔を上げて、という柔らかな言葉に従うと、ファウスト様は同じ目線で私のことを見てくださっていた。先程とおなじ、穏やかな、それでいて輝かしい、まるで森を起こす朝陽のような微笑みで。

「石になるなんて言わないでくれ、アシュリー。僕たちには君が必要なのだから」

 その言葉は、私にとって光そのもの。道を照らし、空を照らしながらも、決して目を灼くことのない優しい光。

「人間と共存することを、諦めないでくれてありがとう。君を見つけ、出会えたことは、僕の誇りだよ」

 身体の芯にまで届く眩い光は、私の“生”の全てを照らして彩っていく。
 私はその時、確信した。それはまるで、常に北を示し続ける星のような、輝かしい真実。
 ――この光に出会うために、私はこの百年を生きてきたのだ。


 *


 足枷が擦れて、無機質な金属音が鳴る。縄が引かれて身体に食い込んで、じりりと焼けるような痛みが走る。そのたびに痛覚がまだ生きていたことに驚き、驚くたびに感情が残っていたことを知って嗤いたくなる。
 日暮れの刻はさぞや火刑が映えるだろう。残った夕焼けの中に磔の台が佇んでいる。まるで赦しを乞うように。嗤ってやろうとして、乾いた喉が擦れて、掠れた吐息が痛みと共に吐き出されただけだった。もう何を嗤おうとしたのかもわからないまま、私は引きずられていく。燃えるような赤い夕焼けの中に。
 周囲の怒号は雑音で、何を言っているかなど、これっぽちもわからない。わかりたくもない。あのようなおぞましい、同じかたちをしていることすら疎ましい、弱くも残虐な生き物たちの言葉など。かつては奴らの病を治し、怪我を癒した私を――そして、あのファウスト様でさえ、このような場に引きずり出そうとしている奴らのことなど。

 ――ああ、ああ――やはり人間と共に生きるなど――無理な話だったのだ――
 恨めしい――恨めしい――……
 ――災いあれ――この忌々しき世界に――終わることのない――災いあれ――……




オズ ムル ファウスト レノックス オーエン シャイロック ブラッドリー/ネロ スノウ/ホワイト
フィガロ ミスラ ヒースクリフ/シノ ミチル リケ ラスティカ/クロエ カイン アーサー ルチル ***
▲目次へ














 最後の杭を打ち込んで、ふう、とひとつ息を吐いた。空を見上げると、西の空が真っ赤に燃えてはいたが、まだ夜までは時間がある。日暮れまでにこっちのテントを張り切れてよかった。
 俺は川下のほうへ足を向け、すっかり馴染んだ奴に声をかけた。

「レノックス」

 槌でテントの杭を打ち込んでいた奴は、俺の声で顔を上げる。俺は親指で後ろのテント群を示した。

「こっちは終わったよ。魔法使いの分もテントを張ろうか?」
「ああ、助かるよ」

 ふ、とレノックスの口元が笑うから、俺も力を尽くすことにした。
 魔法使いたちは力が弱い奴が多かった。炭鉱仕事をしていたレノックスは別だったが。魔法を使ってテントを張ることはできるが、構造や仕組みをきちんと理解していないとテントは脆く、強い風で潰されることもある。だからキャンプのたびに、俺たちみたいな力だけが自慢の奴らがテントを張るのを手伝っていた。
 魔法使いたちのテントを巡り、張り方が甘い部分を指摘しながらフレームを直し、布を引っ張り、杭を打ち直していく。魔法使いたちもそんな俺を見ながら、感謝の言葉を投げてくれる。感謝ってのはいいものだ。言われるとただ嬉しくなる。
 テントを直したお礼だと言って、何人かの魔法使いが人間のテントに防水と暴風の魔法をかけてくれた。それに俺たちからの感謝を述べる頃には、すっかり日は暮れて星が空に瞬きはじめていた。魔法使いが火を起こし、人間が集めた枝や葉で焚き火にする。通った森で仕留めたイノシシを、魔法使いが火の近くに移動させ、器用な人間がそれを捌いた。
 それぞれに得意なことを率先してやり、不得手なことを助け合う。それが、いろんなところからの寄せ集めである俺たちでも、当たり前にできている。

「いやあ、不思議な気分だ。魔法使いと一緒に戦うなんてよ」

 レノックスと共に焚き火にあたり、配られた串焼きの肉を食べながら、俺はそう言った。レノックスは魔法使いだが、こっちの部隊に入って戦うことも多かったから親交も深かった。
 口数は多くないが、俺たちの言葉や行動を丁寧に受け止めてくれる奴だ。返答はなかったが、聞いていることは空気で伝わる。肉を噛みちぎってから、言葉を続けた。

「お前らと出会うまで、魔法使いのことなんか、何も知らなかったからさ」

 魔法使いは傲慢で嘘つきで恐ろしい存在だと、幼いころから言い聞かされてきた。かかわったことも、出会ったこともないのに、ずっとそうなのだと思い込んでいた。
 しかし、アレク様とファウスト様が率いる軍に出会い、流れるようにその意志に賛同した。高潔で立派なお二人の言葉は絵空事にも聞こえたが、お二人なら成し遂げてくれるんじゃないか。この方々が作り上げる世界は、良いものなんじゃないか――そう、思わされたのだ。
 だからともに立ち上がり、圧政を敷く支配者たちに立ち向かうことを決意した。それまで無意味に恐れ、疎ましく思っていた魔法使いと、手を取り合う日々が始まったのだ。

「魔法使いには、ファウスト様みたいに素晴らしい方も、お前みたいに気のいい奴もいる。優しい奴、どじする奴、明るい奴も陰気な奴も。人間と大して変わらねえのに、どうして今まで、悪い奴らだと思ってたかねえ」

 その日々は決して、悪いものじゃなかった。かかわったことも出会ったこともなかった奴らに、勝手な思い込みをしていただけだと気付いたのだ。
 知っていくたびに喜ばしい思いをして、それと同時に、恥ずかしくもなる。どうして今までそんな風に思っていたのか。知る前に、あいつらに失礼なことを働いていたんじゃないか。傷つけたことがまったくなかったと言えるだろうか。
 炎を囲む奴らには人間も魔法使いも区別なく、それぞれに食料を分け合い、言葉を交わしている。誰か一人が歌い出すと手拍子が始まり、踊りだす奴もいる。少し離れた場所にいるファウスト様はアレク様に背中を押されながらも、その手を押しのけていた。残念なことに、今日はあの方の舞いは見られなさそうだ。
 この光景も、あのお二方が立ち上がらなければ生まれなかった光景だろう。戦乱の世の中、暴虐を尽くす支配者どもの下。じっと息を潜めて耐えるだけだった人間や、迫害されて森の中や村の端でひっそりと暮らす魔法使いがどれほどいただろうか。
 そう思いながらアレク様たちを見る俺の名を、レノックスが呼んだ。視線を戻すと、火に照らされたレノックスの顔は、穏やかに微笑んでいた。

「今までそうやって教わってきたんだろう。実際に悪い魔法使いはいるわけだし、身を守るためだ。仕方のないことだよ」

 その言葉はまるで、俺の懺悔を赦すかのよう。ずっと種火のまま燻り続けている悔恨を吹き消すみたいに、レノックスの言葉は柔らかかった。

「だけど、お前がそうやって、俺たちを理解しようとしてくれていることが、俺は嬉しい」

 ――ありがとう。
 そう、感謝の言葉を述べたレノックスを、ファウスト様が呼んだ。
 一度ファウスト様を見たあと、俺の方を見るレノックスに、行ってこいよと手で示す。あの方に呼ばれている奴を呼び止められるわけがない。レノックスは頷いて、俺に背中を向けて歩いていった。
 ――今まで穿った目で見ていた奴に、軽蔑ではなく、感謝されるとは。
 その器の大きさに、寛大さ。それに加え――きっと、あいつは傷つき慣れている。
 残った最後の肉を流し込んで、ひとり、空を見上げた。雲一つない星空は溜息が出そうなほどに美しく、途方もない。あの光は、何百年、何千年も前の光がいまやっと届いているんだよ、と、そう教えてくれたのも魔法使いだったような気がする。
 決して手の届かない、なのにいつでもそこにある。
 それでもこうして、語り合っていいのだと――俺はそう、思いたかったんだ。


 *


 ――ああ。そんなことを思ったこともあったが、反吐が出る。
 日暮れのなかに佇む磔の台。今からここで、国を、アレク様を惑わした魔法使い共の処刑が行われる。
 群衆の囁きに、奴らの罪状が全て籠っている。あいつらは建国後にアレク様を操って魔法使いの国を作ろうとしている。オズに再びこの地を捧げようとしているのだ。あいつらが作った治癒薬や強化薬は人間の内臓を使っていた。ああ、恐ろしい、おぞましい!
 俺たちの尊厳を踏み躙ろうとした奴らに報復を。人間を馬鹿にした奴らに屈辱と死を。
 やはりあれは絵空事。アレク様だってあのファウストに騙されていた。
 人間には人間の国を。呪文ひとつで万物を、心さえ操る魔法使いなど信用できるはずがない。

 ――魔法使いと人間は、永劫にわかりあえないのだ。




オズ ムル ファウスト レノックス オーエン シャイロック ブラッドリー/ネロ スノウ/ホワイト
フィガロ ミスラ ヒースクリフ/シノ ミチル リケ ラスティカ/クロエ カイン アーサー ルチル ***
▲目次へ














 村に訪れる旅の方はみんな、決まって「北の国で、よくこんなに家畜を育てられたね」と驚いた顔をする。北の雄大な自然の中で育った野生動物は獰猛で、魔物が姿を現すこともある。だから、北の国では家畜を育てているところは少ないのだそう。
 山と山の間にある小さな村。ここではほとんどの家が山羊と鶏を飼っていて、山羊は森や山で放牧をしながら育てている。山羊は木の芽や落ち葉も食べるから、自然豊かなこの村では冬場でも餌には困らない。鶏は地を掘ってミミズや芋虫を食べるし、野草も多く食べてくれる。肉や乳は日々の糧になり、革や卵は旅商人の方と取引して、お金や、羊毛で作られた暖かい服に替えることができる。
 もちろん、狼や魔物の脅威がまったくないわけではない。なのに、この村が安全に家畜と暮らせる理由は、村人全員が知っている。旅の方とお話する機会があると、私は決まってこう答えていた。

「この村は、狼神オーエン様が守ってくださっているから!」


 *


 ――そのはずだった。たった数日前も、同じようなことを旅の方に言ったばかりだった。そのことを思い出して、唇を噛む。
 家の山羊が一頭、消えた。柵の内側には血の跡が残され、他の子たちは怯えて壁際で震えていた。痛ましい血痕は向こうの森へと続いている。誰が見ても、獣の仕業だった。
 自然の摂理だ、仕方ない。そう思うには、私たちは恵まれすぎていた。柵の周りには私と両親だけでなく、村長さんを含めた多くの人が我が事のように不安な顔でその血の跡を見ていた。きっとみんな、同じことを考えている。

「こんなことは今までなかったのに……」
「捧げものに満足いただけてないのだろうか……」
「それとも……オーエン様に、何かあったのだろうか……」

 村を守ってくださる、狼の姿をした神、オーエン様。
 そのご加護が薄れることを、私たちは何よりも恐れている。
 狼神オーエン様――雪のような銀色の毛並みに、血を透かしたような真っ赤な瞳。美しく巨大な体躯を持つ神様。誰も姿を見たことは無いけれど、その方にこの村は守られている。
 もちろんそのお礼に、持ち回りで供物を捧げている。生肉と、甘い果実か菓子。私の家はレーヌの実を捧げることが多い。理由はわからないけれど、昔からずっと決まっていたそう。どちらが欠けても加護は薄れるらしい。菓子は、どうしても果物が採れなかった家が苦肉の策で備えたら、その後も加護が続いたことから良しとされた、とか。
 狼が甘いものが好きだなんて意外だけれど、ただの狼じゃなくて神様だ。とても特別な存在なんだろう。
 そんな神様のおかげで、厳しい自然のこの国でも、新鮮な食事と暖かい衣服で過ごせている。
 ――そのはずだった。そう信じていた矢先に、今朝の事件が起きたのだ。
 私の家だけでなく、村全体が不安に包まれながらその日を過ごした。父が放牧に行っている間、私は母と一緒に音の鳴る仕掛けを柵の周りにぐるりとつけた。そして、放牧から帰ってきた牧畜犬のバディに、外敵が来たらちゃんと吠えるよう言い聞かせた。牧畜犬にしては臆病で、ちょっと抜けた子だ。オーエン様のおかげで、そんなバディでも不満はなかったけど、こうなってくると心配になる。家族で一番仲の良い私が真剣に話しても、嬉しそうに尻尾を振るばかりの犬だ。伝わっているといいんだけど。そして他の家も同じように、仕掛けを様々なところにつけていた。
 恵まれた地に降りかかった突然の事態に、誰もが不安と恐怖を抱いていた。
 だけど、よく考えたら、オーエン様がこの村を守るなんて、一度も言ったことがないのだ。村長のおじさんが落ち着かなく歩き回りながら、何人かとそんな話をしているのを聞いた。誰も姿を見たことの無い神様。日々の供物とその加護だけで繋がっている。
 そう思っているのは、私たちだけなのかもしれない。
 ――不安に包まれていても、時間の経過とともに夜はやってくる。暗くなる前に家族みんなで仕掛けの確認をして、山羊と鶏の数を数え、バディに再び言い聞かせて、いつものように夜の支度をして眠りについた。
 気疲れも相まってすぐに眠りに落ちた私が目を覚ましたのは、窓の外からか細い鳴き声が聞こえてきたときだった。寝ぼけ眼をこすりながら窓の外を見ると、満ちた月が空高く昇っていて、明るいながらも深夜だとわかる。よく耳を凝らすと、鳴き声は私を呼ぶ時のバディの声だった。
 この声を聞くと、いつも眠気と疲れが飛んでしまう。私は上着だけ羽織って、急いで家を飛び出した。バディの声が聞こえてきたのは、山羊がいる方だ。私が柵を飛び越えた音が聞こえたのか、バディは一目散に駆け寄ってきた。

「バディ、一体、どうし……」

 そう、声を出した瞬間。強い風が吹いて森の木々を揺らし、私の声を掻き消した。私が来たことに喜んで尻尾を振っていたバディは、はっとしたように、柵の外を見る。そして、きゅう、と鼻だけ鳴らして、何かに従うように腹を伏せた。
 思わず私も、バディと同じ方を見る。――瞬間。叫び出しそうになって、思わず呼吸を止めた。
 満ちた月明かりに照らされるように、狼が数頭、歩いていた。彼らはどこか興奮したように舌を出し、息を荒げながらも、付き従うその存在を追い越すことはない。そして、そんな彼らを従えて、先頭を歩いているのは。

「もう少し落ち着きなよ。そんなに殺気立ってたら殺れるやつも仕留められない」

 降り積もった雪が夜に染まったときのような銀色の髪。きらりと一瞬、赤い眼光が光ったように見える。上から下まで白を纏っているために、月の光を浴びると、世界から浮かび上がっているみたいだった。すらりと長い脚がゆっくりと、焦らすみたいに、森の方へと進んでいく。外套を羽織っているとはいっても、この時期のこの時間にしてはおかしいくらいの薄着だった。

「おまえたちの縄張りは僕の縄張りだ。それを侵すということがどういうことか、教えてあげなきゃね」

 にんまりと薄く微笑む口元がそう言うと、狼たちは体毛をぶわりと逆立たせた。そのひとの言葉に、鼓舞されたように。
 私は直感する。雪のような銀の毛並みに、血を透かしたような赤い目の、狼の神様。
 何の言葉の繋がりもないまま、捧げものと加護だけで繋がっていた、誰も見たことの無い神様は――。


 *


 結局犠牲になったのは、最初の山羊一頭だけだった。それからはなんの被害が出ることもなく、また村には安心と、オーエン様への感謝が満ち満ちていった。
 あの日見たことを、私は誰にも言えなかった。……というより、言わなかった。
 オーエン様がひとであったことを知れば、村のみんなは喜ぶだろうし、今まで以上に捧げものにも工夫が凝らされるだろうけれど。それでもきっと、こうしてお守り続けてくださっている以上、オーエン様はそれを望んでらっしゃるわけではないでしょうし……何よりも――。
 バターとミルクと砂糖を煮詰めて、お菓子を作りながら思う。今日は私の家が、捧げものをする日。表では両親が、肉の捧げものの支度をしている。お菓子を作りたいと言ったのは私で、母は「珍しいこともあるものだ」という顔をしたけれど、そこは私に任せてくれた。
 みんなが美しく巨大な狼だと思っているオーエン様。だけど私は、本当は細くて白くて美しい、ひとのかたちをした神様だと知っている。――ああ、ここに誰もいなくて良かった。煮詰めてどろどろになったものを、木で作った型に流し込んで、それをさらに雪を敷き詰めた大きなトレイの上に置いた。神様に捧げられる頃には固まって、甘いお菓子になるだろう。私はキッチンの窓から、よく晴れた空を見上げた。

 ここは動物と暮らす村。狼と、美しい魔法使いに守られている。
 それを今、私だけが知っている。




オズ ムル ファウスト レノックス オーエン シャイロック ブラッドリー/ネロ スノウ/ホワイト
フィガロ ミスラ ヒースクリフ/シノ ミチル リケ ラスティカ/クロエ カイン アーサー ルチル ***
▲目次へ














 「素晴らしい酒場があって、いつも魔法使いで賑わっている」と聞けば。「そんな誰もが行くところに行くなんて、個性がなくてつまらないじゃないか」と思うのも、「そんなに賑わっているのなら、どんな素晴らしいところなのかこの目で確かめてみないと」と思うのも、どちらも西の魔法使いだと思う。
 僕はどちらかというと前者の方だったのだが、思考なんてある日突然変わったりもする。――だから約束をしてはいけないと、魔法使いは強く言われるわけで。
 突然気が向いて、それまでなんとなく足を運ばなかった“ベネットの酒場”に立ち寄った。気持ちの軽さで言えばそれこそ一枚の鳥の羽くらいだ。どれだけ美味い酒が飲めるのだろうとか、内装はどれほど美しいのだろうかとか。そんな、一時の快楽を得るために足を運んだ。
 ――はずだった。
 足を踏み入れた瞬間、バーカウンターの中に立つ店主と目が合った。その時の衝撃は、まるで、美しい神酒の歓楽街の海に背中から落ちたかのようだった。
 流麗な剣先を思わせる、鋭いワインレッドの瞳。しかしそこに刺々しさはなく、あるのは芸術品のようなつややかな美しさ。すべらかな肌は陶器を思わせて、距離があるのに、思わず触れたくなる。なのに、どうしようもなく近寄りがたい。ショーケースにしまわれ、厳重に警備がついた、一級品の宝石のように。
 花のように色付いた唇が、天使のように微笑んで、柔らかく僕に向かって言葉を紡ぐ。

「いらっしゃいませ、初めてのお客様ですね。良ければさあ、こちらの席へどうぞ」

 示されたのは、彼の目の前のカウンター席だった。
 周りの魔法使いから、野次にも似た声が飛ぶ。いいなあ、シャイロックの前なんて一等席だよ、俺ももう一回初めての客になりてえなあ、そこはいつもムルが座るのに!
 初めての僕を迎え入れながらも、羨望を隠そうともしない西の魔法使いや魔女たちの声を、彼が窘める。

「もう一回初めてになりたいだなんて。今まで私と積み重ねてきた時間を無かったことにしたいのですか? ひどい方」
「ああ、ごめんよシャイロック! そんなつもりじゃなかったんだ!」
「ふふ、わかっていますよ。つい意地悪を言いたくなってしまって。それにムルは、今日は来ませんよ。今宵は満月ですからね」

 言葉でひとを抱き寄せたり、吐息で突き放したり。遊んでみたり、溜息をついてみたりしながら客とかかわる、その唇の動きからさえ目が離せない。示された席に座ると、彼の手元までよく見えた。綺麗に整えられ、薄紅に色付けられた爪先。傷ひとつない華奢で優雅な指。ボトルを取る手のひら、注ぐ仕草、グラスをつまむ指先、全てに神経が注がれた優美な動きと、その手の中で作られていく色あざやかなカクテルたち。ふわりと立ち込める爽やかで甘美な香り。彼がいる空間、空気、動きのひとつひとつに酔いそうになりながら、僕は。

「……店主さん」
「シャイロックで構いませんよ。ご注文はお決まりですか?」

 向けられた彼の目が、心臓から送り出される情熱的な血の色にさえ見えた。

「僕と結婚してくれないか……!」

 ――瞬間。空間を満たしたのは静寂だった。
 だけどあっという間に西らしくない沈黙は破られ、歓声が飛び、隣の客が僕の背中を叩いた。初めてでそれかよ、やるなあ、さすがこの席に招かれるだけあるよ。飛び交う声は嘲笑ではなく賞賛に似ていた。
 肝心の店主――シャイロックは歓声に満ちた空間の中で、にこにこと楽しげに笑っていた(しまった。周りのどよめきに流され、求婚直後の表情を見忘れてしまった!)。

「初対面で求婚されたのは二度目ですね」

 まるでなんてことないように。天気の話をするような気軽さで、彼はそう言った。その言葉は西の魔法使いにとっては、少しばかり屈辱的だった。

「……最初じゃないんだ、悔しいな。だけど、嘘でしょう? 君に求婚するひとなんて、星の数ほどいそうなのに」
「否定はいたしませんが……初対面で、という方はあなたで二人目ですよ。結婚は約束です。慎重にならなければいけないのに、あなた方ったら」

 くすくす、と堪えるように小さく笑うさまは愛らしく、まるでいたいけな少女のようですらある。ショーケースに囲われた宝石から、花瓶に飾られた一輪の可憐な花へ。本をめくるように移り変わる美しさに、ますます目が離せなくなる。

「だって、君の仕草も姿勢も動作も、何もかもがこれほど美しいのに。最高級の宝石だって、あなたの美しさの前には恥じらって姿を隠してしまうよ。宝石は物を言わないし、動かない。だけど君は、言葉にも動きにも輝きが溢れているんだ。僕の目も心も、すっかり君に奪われてしまった。この世界にそういったものが、君を除いて存在するだろうか? そんな君を愛さないものが、この世界にあるんだろうか?」
「まあ、なんて流麗で躊躇いのない言葉でしょう。初対面の方にそう賞賛されるのはとても良い気分です」

 僕の精一杯の讃辞にさえ、照れも恥じらいもなくそう返す。ああ、なんてもどかしい。僕は人生最大の美と向き合ってるのに、彼にとってこんなものは日常茶飯事なんて!
 一体どうすれば、彼の気を引けるのだろう。そう考えながら、カクテルを作り始めた彼の手元を見ていたら、そんな悩みは空の彼方へ飛んで行ってしまった。何一つ無駄がなく、指先も手首もすべての動きがひとの目を魅了するために作用している。ああ。またしても奪われる。目も心も捧げた、次は何が捧げられるだろう。
 やがて振られたシェイカーが開き、一つのグラスに注がれる。愛らしく華やかな、桃色のドリンク。仕上げに彼が魔法をかけると、きらきらと小さな星がドリンクの中に輝きだす。まるで一番星の浮かぶ空のよう。
 そのグラスは、まだ何も頼んでいない、僕のところに差し出された。

「サービスの一杯です。今の私から、あなたへの気持ちです」

 ――そんな夢のような、地獄のような酒を作ってもらえるなんて。
 感動と歓喜と恐怖で興奮しながら、グラスを眺めた。夕刻を迎えた空の色らしく、底は血のように赤い。いつまでもこの星の輝きを眺めていたかったけれど、これは彼の厚意であり想いだ。早くこの舌で味わわないと。
 そっ、と口に含む。瞬間、言いようのない果実の甘さが口の中を満たし、幸福感が全身を支配する。しかしすぐにぱちぱちと弾ける刺激とアルコールの辛さが喉を焼いた。僕の愛を感謝しながら、突き放すような風味と刺激。
 しかしそんな後味まで含めて、とても美味しい酒だ。
 ああ。彼はこれを飲ませて、僕をどうしたいのだろう。諦めろと言いたいのか、からかっているのか。初対面の僕では、何もわからないけれど。

「やっぱり君と結婚したいよ、シャイロック……僕は諦めないからね」
「ふふ、諦めの悪い方は好きですよ。物分かりの悪い、とは違いますからね」

 シャイロックがくつくつと喉の奥で笑った途端、扉のベルが鳴った。僕が入ってきたときと同じ音、来客を示すベルだ。

「こんばんは、シャイロック。ああ、今日もあなたは美しい! あなたが世界を歩けば、鳥はあなたを賛美し、風はあなたを飾るでしょう。世界の全てが、シャイロック、あなたのその美に触れる瞬間を待ち望んでいるわ!」

 迷いなく紡がれる讃辞と共に入ってきたのは、一人の魔女。恍惚の眼差しでシャイロックを見つめ、案内を待たずに空いたカウンター席に腰かける。黒いレースのグローブを纏った手を大きく広げて、まるで歌のように彼女は言った。

「さて、今日も愛を受け止める準備はよろしくて? ――私と結婚して、シャイロック!」

 ――彼女のその言葉を聞いた瞬間、シャイロックの言葉が蘇る。
 “初対面で求婚されたのは二度目ですね”
 “結婚は約束です。慎重にならなければいけないのに、あなた方ったら”

 思わずシャイロックの方を見た。情熱的なプロポーズを受けながらも、それに返答はせず――まあ僕の時もそうだったわけだが――彼は、僕の方にちらりと視線を送った。いたずらを企む猫のような、愛嬌のある眼差しで。

「今宵は愛に満ちた、騒がしい夜ですね」

 ――そんな彼女との出会いが運命だったことを知るのは、それから数十年ほど後の話。




オズ ムル ファウスト レノックス オーエン シャイロック ブラッドリー/ネロ スノウ/ホワイト
フィガロ ミスラ ヒースクリフ/シノ ミチル リケ ラスティカ/クロエ カイン アーサー ルチル ***
▲目次へ














 命が流れ出していた。 
 天と地の境界さえわからなくなるような、白い曇天と雪。命まで凍らせるその冷たさは、生命には決して抗えないほど、残酷で恐ろしい。しかしそれは正しく、俺やみんな、そしてボスが愛した景色だ。
 その上に、俺の命が流れ出す。全てを拒む無垢の純白が、腹に開いた穴から流れる穢れに満ちた血に呑み込まれていく。抗えないはずの自然を俺ごときが汚すのが滑稽で、嗤おうとして、ごぼりと口からも血が溢れた。
 ――ああ。どうしてこんなことに。
 真っ白の地面を血が汚しても、白い空は何も言わず、ただ時計の針が動くように淡々と雪を降らせていく。赤く染まった場所さえ、すぐに新たな白い雪に埋もれていくのだろう。俺の命など、初めからこの世界になかったかのように。
 頬に落ちた雪が冷たくて、まだ体温が残っていることを知る。ひたひたと迫りくる死の感触の中で、腹に穴を開けた奴らの声が脳裏にこだました。
 悪事を働きすぎたのう。この北の国で、我らから逃れられると思うなよ。
 そなたたちの絆は北の国一。再結成が一番面倒じゃ。
 ゆえに命を奪う、一人残さずじゃ。恨むならそなたたちをまとめあげた、ブラッドリーを恨むのじゃぞ。
 ――ああ、くそ、くそったれ。
 ちがう、ちがう。こんなことになるはずがなかったんだ。ボスは、俺たちは、あの双子やフィガロにだって立ち回れるはずだったのに。
 悔恨が、苦痛が、流れていく命が、かつての記憶を浮かび上がらせる。それはまるで魔法を覚えたばかりのときに、初めて指先に灯した炎のように、高揚と期待に満ちていて――風で折れる木の枝のように、か細かった。


 *


 死の盗賊団の中で、俺は比較的古い方の顔だった。多くの奴を迎えたし、多くの死を看取った。口にした仲間の石の数も覚えていない。
 ただ、ネロは俺より先にいた。とはいえ俺が入ったばかりの時のネロはガキで、年は俺の方が上だった。ボスも俺も姿の年齢は止まっていたが、ネロはまるで短い夏の植物みたいににょきにょきと背が伸び、あっという間に俺らの見た目に追いついた。長く人間と暮らしてなかったが、そういえばこんな感じだったかもしれない、とボスと話した日もあった。
 しかし魔力が成熟し、腕っぷしも強くなると、だんだん態度もでかくなっていった。ボスが立てる作戦に噛みつき、作戦中にも噛みつき、危険なところに勇敢に身を踊らせようとするボスの首根っこを捕まえたことだってあった。危険が多い場所を狙うほどそのネロの態度は目についた。
 だから俺は一度、ネロのいない場で進言したことがあった。

「ネロの奴、ボスに馴れ馴れしくしすぎじゃありませんか? 一回わからせた方がいいですよ、あれ」
「いいんだよ」

 ――ボスの答えは、一瞬で返ってきた。ボスはグラスの中でからからと氷を揺らしながら、遠くでメシを作るネロの背中を見ていた。

「ああいう奴が一人いたほうが、組織ってのは安定するんだ。どいつもこいつも俺の言うこと聞いてたら、俺が間違った時に立て直せねえだろ」

 そう言ったボスの表情を、生涯忘れられないだろうと思った。
 喩えるならば、風のない雪原。目が覚めるようでありながら、四肢の力が抜けるような穏やかさが、いつも爛々と輝く瞳に宿っていた。こんなボスを見たのは初めてで、心臓に鉛玉を受けたような衝撃を受けたのだ。
 そして言葉通りに、ボスはネロを邪険にすることはなかった。噛みつくネロの意見を聞き、首根っこを捕まえられれば「ならてめえはどうする」と怒ることなく尋ねた。経験の浅いネロの言葉を跳ね返すことも多かったが、頷いて尊重することも少なくはなかった。
 その姿は俺たちにとって衝撃だった。俺たちはボスが命じたことをそのままにやればいいと思っていたし、実際、それでほとんどの作戦が成功し続けていた。ボスの采配に過ちがあったことはなかったし、その中で石になった奴だって本望だっただろうと思う。ここまで生き延びた俺だって、ボスの為なら死ぬ覚悟はとうにできていた。
 ――二人の距離はどんどん近くなっていった。それからほどなくしてネロは名実ともにボスの右腕となったし、愛称で呼ぶ姿も見られるようになった。
 そうなって以降、ボスはどんな危険な場所や相手でも、狙ったものを手にして生還した。石になる奴らの数も減った。それにはネロの慎重な判断や的確なサポートが役に立ったと、ボスも宴で上機嫌に言っていた。

 あのボス相手に堂々と、細かいことまで臆さずに言えるネロ。それを下っ端の発言だと拒絶せず、耳を傾けて受け入れるボス。
 この二人がいたから、死の盗賊団は強く、大きくなっていったのだ。

 ――しかし。
 数百年という時間は、変化という歪みをもたらしていく。

 時の洞窟の奥まった場所にある空間に、ネロは閉じ込められていた。そんなネロに食事を届けに行く役目を、俺は進んで買って出ていた。ネロがそうなってあの飯が食えなくなったぶん、俺が食事担当になったのもあるが。
 名前を呼ぶと、振り返る。夕暮れ時の麦穂のような瞳は淀みきって、見る影もない。俺はこいつがガキの姿だった時のことも、つい三日前のことのようにさえ思えるのに。ほら、と食事を出すと、掠れた声で感謝が聞こえる。こんな時でも欠くことのないその心持ちも、ボスがこいつを右腕に選んだ理由だろう。
 ネロが俺の作ったポトフをゆっくり口に含む。先にスープを飲み、その後に具材をいくつか口に含んだ後、小さく喉を鳴らして笑った。

「んだよこれ、肉ばっかりじゃねえか。ポトフなら山ほど野菜入れろよ、まだ残ってるやつあったんだから」
「だってボス、野菜入れるとキレるだろ?」
「そうだけどよ、野菜からもいい味が出るんだ。じっくり煮込んで、仕上げにニンニクを少し入れる。そうするとあいつ好みの味にもなるよ」

 そう言いながら俺の作ったポトフを食べるネロの顔は、まるで閉じ込められているなんて嘘みたいに穏やかだった。料理の話をしているときのネロはいつもそうだ。
 少し前まで、ボスの話をしていても、そうだったのに。
 ぐ、と思わず拳を握った。ネロがこうなって、他の奴らがうるさい。見よう見まねで作った俺の料理に文句をつけるし、こいつの料理を既に懐かしがっている。ボスの表情は固く、常に宝を狙って作戦を展開し続けるひとなのに、愛用の地図はここ数日丸められたままだ。その異変には全員が気付いている。理由は誰にとっても明白だった。

「……抜けるなんて言うなよ、ネロ」

 本音が零れた。スプーンを持つ手が止まる。
 この盗賊団は、ボスのものだ。ボスがいなければ成り立たない。しかし。

「盗賊団にもボスにも、お前が必要なんだよ」
「……俺が必要、って」

 懇願にも似た思いを伝えても、ネロは戸惑いさえ見せなかった。こつん。食器が床に置かれる音が、二人しかいない空間の中で響く。天井から響く音はまるで雨のようで、途方もなく虚しかった。

「俺がいるのは、あいつが無茶をやるためじゃねえんだよ……」

 その言葉に、思わず呼吸が止まった。こいつが零した本音は、俺のそれよりも冷えて濡れて重たい。雪の中に埋もれた土のように。
 ――いつからだっただろう。
 ボスを慕い、目を輝かせてその背を追いかけながらも何度も噛みついていたネロの瞳が、その輝きを失って淀むようになったのは。
 いや、いつから、というのは些細なことだ。
 ネロの忠言に耳を傾け、必要とあればそれを尊重していたボスは、ネロの言葉にも少しずつ耳を貸さなくなっていった。きっとそれは、ネロの魔法の扱いが上達し、ボスが無茶をしてもそれをカバーできるようになったから。
 こいつがボスに噛みつき続けていたのは、こいつが慎重だから。言い方を変えれば、臆病だから。
 ボスという存在を失いたくないのに、ボスはこいつがいるから安心して無茶をする。
 それは――それはこいつにとって、どれほど辛く、虚しいことだっただろう。
 言葉を無くした俺を見て、ネロは気まずそうに眼を背ける。

「……んでもない。忘れてくれ」

 置かれたままの食器は、綺麗に空になっていた。


 *


 すう、と失われていく体温が、意識を現実に浮かび上がらせる
 ああ。――俺がどちらかになれればよかったのに。
 それはありえるはずもない泡沫の夢。たとえそうであったとしても、盗賊団はここまで大きくならなかった。強くとも脆かっただろう。長く続いても貧しかっただろう。まるで午後のうたた寝のように、僅かな刺激で目覚める程度の夢だ。
 ボスと、ネロ。二人がいたからこそ、華々しい成果をあげ続けられたし、救われた奴も、使命を果たして死んでいった奴もいた。
 だとしても。

 俺だったらボスの前からも、ネロの前からも消えないのに。

 途方もない願望と悔恨が、目から無様に溢れていく。
 最期の涙は俺の、虹色の肌を伝って落ちていった。




オズ ムル ファウスト レノックス オーエン シャイロック ブラッドリー/ネロ スノウ/ホワイト
フィガロ ミスラ ヒースクリフ/シノ ミチル リケ ラスティカ/クロエ カイン アーサー ルチル ***
▲目次へ














 どうして。どうしてこんなことになっている!
 色のない無垢な曇り空を背に、夜色の髪をした二人の少年が、温度のない笑顔で俺を見下ろしている。
 いや。こいつらは少年などではない。
 少年に見えるだけの、そこらの木々よりも長い時を生き続ける、悪魔だ。
 同じ生き物であるなど――同じ魔法使いだとさえ思いたくない!

「ほほほ、我らから逃げられると思ったか。可愛いのう、可愛いのう」
「石にしても糧にならないような分際で、身の程を弁えていないところがのう」

 奴らは笑う。小動物のように無害そうに、愛らしく。
 それは悪魔の被った、温度のない仮面だった。

 *

 魔法使いの双子として生まれた俺と妹は、生まれた時からずっと、スノウとホワイトの後継なのだと周りから持て囃されていた。親のことはよく知らない。物心ついた時から、俺たちのために建てられた屋敷で暮らしていた。村に不都合があれば俺たちが魔法で対応し、代わりに村の全ての贅を明け渡されていた。何も苦のない生活だった。
 しかし俺は次第に、妹との力の差に気付いていった。妹は魔法で、それこそなんでもできたのだ。怪我や病気を治すことも、物を直すことも、ある時は雪崩だって止めてみせた。
 大して俺は、何もできなかった。魔法は使えても、高いところにある木の実を取るだとか、その程度だった。
 劣等感に苛まれた俺は、妹の力を我が物のように誇示することにした。妹は魔力は強いが、賢くはなかったのだ。俺がこれが正しいのだと言えば、目を輝かせて頷いた。水晶のふたつみっつ与えてやれば、喜んで俺の言うことを実行する愚かな妹だった。
 俺たちの村を襲う魔法使いが最初の対象だった。手強い相手で魔力も妹と互角だったが、妹に森へ誘い込むよう指示をした。無垢で幼い妹を相手に油断しきった奴はまんまと森へ誘い込まれ、俺の魔法で足を一瞬絡めとった。命を奪うには、その一瞬で十分だった。
 殺した魔法使いの石は全て妹が食べた。妹はどんどん力をつけ、どんな魔法使い相手にも臆しない力を手に入れていった。一方で俺は、石食いを身体が拒んだ。これを食べれば強くなれると頭ではわかっていたが、そうできなかった。恐らく俺の魔力では、北の魔法使いの石は消化しきれないのだ。
 その劣等感から、妹にさらに力を振るわせた。村を守ってやったのだからと村人からさらに搾取して、それを糧に他の地域に手を伸ばした。そこを守る魔法使いや魔女を殺し、抵抗する人間を殺した。何も持たない無価値で矮小な人間も殺した。それを見せしめに、さらに搾取を繰り返した。
 村だけじゃない。この世の贅は全て手に入る。俺たちの前身だかなんだか知らないが、スノウやホワイトだって怖くない。何故なら、妹が殺した魔法使いが、人間をいたぶりながら言っていたのだ。ホワイトはスノウに殺されて死んだのだと! 傑作だ、互いに殺し合う双子だなんて! 重ね合わされていたのが屈辱に思える!
 あの時いたぶっていた魔法使いを殺し、俺たちを救世主を見るような目で見上げた人間に、村の上物を全て持ってくるよう命令した時の表情は傑作だった。支配する側の高揚と興奮だった。
 俺たちは完全無欠だ。頭脳を回す俺と魔力を行使する妹。何も欠けてはいやしない。世界の全てが俺の、俺たちのものだった。
 ――なのに。
 片割れが欠けたはずの双子が、完全無欠の状態で、俺の前に立っている。

「ちょっとおいたが過ぎたのう。大した魔力でもないから、兄は放っておこうと思ったが。妹とはいえ、他者をよく操ったものじゃ」
「魔力不足を、他者を使役することで補うとは。力任せの奴より厄介じゃが、北にはそなたよりも上手の者がいるからの。身の程を弁えるのは大事なことじゃぞ」

 妹がいない隙を狙って、こいつらは俺を襲撃した。妹が出かけることなんてほとんどないのに、まるで何もかもを見透かしているかのように。縄張りではなく、俺だけを。
 衝撃を受けた腹と、吹き飛ばされた右腕、折られた脚。必死に念じて抑えても、それを上回る熱と痛みが全身を塗りあげる。回復なんて、俺の魔力で出来るわけがない。咳込んだ瞬間、新たな血が雪原を染めた。溢れた血が唇の端から伝っていく。ただでさえ少ない魔力が、血と一緒に流れ出していく。
 それでもまだ、勝算があった。妹さえ、妹さえ戻ってくれば、こいつらを撃退できるに違いない。この怪我だって、どうにかなる。腕を一本生やすのなんて、あいつの魔力ならどうってことないはずなんだ。俺は口端を上げて、奴らを睨んだ。

「はっ……殺し合った双子が、何を偉そうに……。俺は、お前らとは違う。妹が来れば、亡霊交じりの双子なんて――」
「ほう。妹とな」
「その妹は。そなたの片割れは、いつ来るのかの?」

 ――硝子玉のように無機質な瞳が、変わらずに俺を見下ろしている。
 さっきから、妹を呼んでいるはずだった。左手にはめた、銀細工の歪な指輪。これを擦れば妹がすぐに気付き、駆け付けてくる。妹も俺を呼ぶ指輪をつけている。そういう魔法を妹がかけていた。
 今までもそうだった。俺が人間と話をするときや、妹が散歩をしているときに襲撃があっても、これで互いに対応できた。魔法が弱まっていたり、妨害されている形跡もない。
 なのに、妹は、現れない。
 金色の硝子玉が四つ、同時に細められる。残った手を必死に、無様に動かし続ける俺を嗤うかのように。

「我が弟子ながらちょっと引いちゃうけどね、フィガロちゃんの人心掌握術」
「心の弱いところを的確にくすぐって懐に入れちゃう。あの子、そういうの得意なんだよね」
「いやー、でもやっぱり、ないよねー」
「我が弟子ながら、ちょっとねー」

 まるで道化のようなやりとりは、軽やかに俺を蔑んでいる。
 俺の魔力は少ないが、その分考える頭があった。だからこそ、奴らの短い言葉で気付いてしまう。
 妹は来ない。俺を助けには来ない。
 こいつらは、結託して、計画して、俺を殺しにきたのだ。
 完全無欠の俺たち双子は、片割れがいないと何もできないことと――スノウとホワイトの後継と呼ばれながら、互いを露ほども尊重しなかったことを知って。

「さて。殺し合った双子が偉そうに、じゃったかの?」
「死の危機に瀕し、呼んでも来ない妹を持った兄がいるそうじゃが」
「たとえ死の危機でも、助けようと思えない兄を持った妹かもしれんぞ?」
「ほほほ、きっとその両方じゃ」
「そりゃあ、我らと違って当然というもの」
「我らはずっと一緒じゃからの。たとえ」

 最期の記憶は、その時に二人が同時に俺に背を向けたことだった。一瞬の躊躇いもない、重なり合った呪文の直後、皮膚の下で潰れていた内臓が外から貫かれる。

「――死が二人を分かつとも」

 血が行き場を失い、口からごぼりと溢れ出る。
 砕けていく指先から、指輪が外れて雪に落ちる。囁くようなその音が、俺の最期の音だった。




オズ ムル ファウスト レノックス オーエン シャイロック ブラッドリー/ネロ スノウ/ホワイト
フィガロ ミスラ ヒースクリフ/シノ ミチル リケ ラスティカ/クロエ カイン アーサー ルチル ***
▲目次へ














 そのひとが目の前に現れた時、わたし、神様なのかと思ったの。
 夜明けの髪とオーロラの瞳。真昼の光のように白い肌に、熟れた果実のような柔らかな口元。
 世界をそのままひとの形にしたら、こんなふうになるんじゃないかなって。
 ――あの時突然、結界の綻びをすり抜けるようにしてわたしの元に届いた、魔力を帯びる一通の手紙。
 うまれてはじめて手紙をもらって、嬉しくて、書かれてあった場所にたったひとりで飛んでいった先で。
 わたしは、世界に出会ったのだ。

「初めまして。突然の誘いだったのに、来てくれてありがとう。君の名は聞いているよ、強靭で無垢な、愛らしいドロテア」

 ……初めまして。素敵なお誘いをありがとう。その通り、わたしはドロテア。でもわたし、ごめんなさい。あなたの名前を知らないわ。

「ああ、ごめん、俺から名乗るべきだった。俺はフィガロ。君と同じ、北の魔法使いさ。もっと近くで、君の顔を見てもいいかい? その瞳がどんな色をしているのか、どんな輝きを宿しているのかを知りたいんだ」

 わたしの瞳なんて、大したことないわ。それより、あなたの瞳の方がうんと素敵。空の中に緑の光がひらめいて、まるでオーロラみたいだと思ったの。

「おっと、まさかレディの方から口説いてくれるなんて、こんなに嬉しいことはないな。――ああ、これは痛ましい。水晶の似合う指先が、こんなにやせ細っていて」

 ドルフが言うの。おまえはこれくらい細くあるべきだって。やせっぽちの女なら、魔法使いはみんな見下すから、油断させるのにちょうどいいって。ドルフはわたしと違って賢いから、ドルフのおかげでいままで生きてこられたの。綺麗な水晶も、見て、こんなに。ドルフが全てくれたのよ。

「君はこんな水晶で満足していい魔女じゃない。多くの男が、魔法使いが、躍起になって君に宝石を捧げるだろう。それくらいに君は美しいし、強い魔力を持っている。兄がいなくたって、君の足で歩いていったっていいんだよ」

 ……わたしの、足……? それは無理よ。わたし、頭が悪いから、この北の国でドルフがいなかったら路頭に迷って死んでしまうわ。怖い魔法使いがいっぱいいるの、わたしなんかより、ずっと強くて恐ろしい……。今まで勝てたのは、ドルフがちゃんと作戦を立てて、裏をかくように攻撃できていたからだわ。やらなければやられてしまうから、そうやって、わたしは生きてきたの。

「何を言っているんだ。君に勝てる魔法使いなんて、もう北の国で数えるほどしかいない。なのに君がそう思ってるなら、そのドルフに、騙されているんだよ」

 ドルフ……が……? いいえ、そんなこと、そんなはずないわ。ドルフは今までずっと、私を助けて、守ってくれたもの。

「いいや、違う。君は自分で生きていける。なのにそれを邪魔するのは、ドルフには君の力が必要だからだ。だから必死に守っている振りをして、君が自分から離れていかないようにした。ただそれだけさ」

 ……そんな……ああ、ああ、ドルフが呼んでる。どうしよう、ドルフが呼んだら、私、いかなければならないのに……。

「行きたくない? なら行かなくたっていいんだ。君は君だ。ドルフの妹じゃない。ドロテア、君は君の生きたいように生きていいんだよ」

 ……わたし、わたしの、生きたい……ように……?

「……ああ、可哀想に。今まで兄のために生きてきたのだから、突然そう言われても困るだろう。君が良ければ、俺のところにおいで。君が生きたくなる道が見つかるまで、俺が君を助けてあげよう」


 *


 フィガロ様のためのお料理もお洗濯もお掃除も、何も苦ではなかった。前々から人間が家事をしてくれるのがおもしろくて、よく観察していたおかげね。間違いがあればフィガロ様が教えてくださったし、きちんとできれば「ありがとう」と微笑んでくれた。そのたびに、心臓のあたりがぎゅっと熱くなって、頭がぽかぽかして、飛び回りたい気持ちになった。ドルフが水晶をくれるあの瞬間に似ていて、だけどそれよりもずっと暖かい。それを“幸せ”というのだと教えてくれたのも、フィガロ様だった。
 フィガロ様は毎晩のように、「君はやりたいことをやっていい」「君の生きる道を探そう」と言ってくださる。最初は意味が分からなかったけれど、ようやっと、わかってきたの。
 わたし、ずっとこの“幸せ”でいたい。ずっとこのままがいい、そして、これがもっともっとたくさん欲しい。
 そう気付いた時、うれしくて、すぐにフィガロ様の元に行ってその足先に頬を寄せた。

「ねえフィガロ様! わたし、決めたわ」

 ふわりと漂う、穏やかで冷たいフィガロ様の匂い。雪が降った次の晴れの日みたいで、大好きな匂い。顔を上げてフィガロ様を見上げると、いつも変わらないオーロラの瞳が私を見下ろしている。冷たくて温度のない、冬の夜のような瞳。はじめて、わたしの心を見てくれた瞳。この瞳があるかぎり、わたしは、なんだってできる気がするのだ。

「わたし、死ぬまでフィガロ様に尽くすわ。おうちのことならまかせて。魔法のことも、なんでも手伝ってあげる。どんな魔法使いも石にするし、欲しいものはなんだって奪ってくるわ。ねえ、だから、フィガロ様。わたしを死ぬまで、あなたのお傍に――」
「――あーあ」

 フィガロ様の指先が伸びてきて、わたしの額に触れる。何も起こらない、けれど、フィガロ様のくちびるは淡々と動いて、わたしに言葉を降らせていく。

「何も考えない愚かな隷属者はいらないんだ、いつ目が覚めるかわからないからね。自分で考えて、一人で歩いていくのなら、利用価値もあったのに」

 ……きっとこれは、かなしいことをいわれている。とてもさみしいことをいわれている。この言葉は、わたしを傷つけようとしている。
 なのに、わたしの身体は春になる。頭にも、心にも花が咲いて、踊りだしたくなるくらいにしあわせな気持ちになる。頬が緩み、目元が緩み、顔が雪解けのように溶けていく。ああ、しあわせ。かなしいのに、さみしいのに、つらいのに、どうしてこんなにしあわせなのかしら?

「雪崩さえ止めた魔女だ。兄がいなくなって、背中を押せば、そんな未来も来るだろうと思っていたけど」

 ふれたままの額から、つめたいこおりが、落ちてくる。あたまからくびに、しんぞうに、どんどんおちていって、世界がどんどんくらくなる。ああ、でも、つめたくても、くるしくても、わたし、平気よ。
 だってあなたがそこにいる。フィガロさまがここにいる。その目がどれほどつめたくても、それでも、わたしは。

「期待外れだったな」

 ひえきった耳に、なにかがわれる音がとどく。冷たくてきれいなおとは、どんどん大きくなって。からだがこおりになったみたいに、ひびがはいっていく。
 しらなかった。死ぬって、石になるって、こんなにきれいでしあわせなことなのね。

 ああ、フィがロさま。ふぃがろさま。
 わたしはさいごのときも、あなたのおそばに、




オズ ムル ファウスト レノックス オーエン シャイロック ブラッドリー/ネロ スノウ/ホワイト
フィガロ ミスラ ヒースクリフ/シノ ミチル リケ ラスティカ/クロエ カイン アーサー ルチル ***
▲目次へ














 チレッタがミスラを連れてきたとき、ああ、やられた――と思った。
 雪ばかりの北の国で、その赤の髪は誰の目をも引いた。命の灯火が薄い景色の中、その髪はひとの営みを示す、燃え盛る焔と迸る血潮のようだった。幼子ながら手足も身の丈もすらりと長く、端正な顔立ちは芸術品かと見紛うほど。鮮烈な緑の瞳は、最果ての極光を思わせた。
 そしてなんといっても、その身体から溢れ出る魔力は強大だった。この見た目でこの魔力なら、いずれオズをも脅かす魔法使いに育つかもしれない。その魔力は若さゆえの健やかな美しさを覆い、艶のある色香さえ併せ持たせていた。
 一目見て溜息が出た。
 その姿はあまりにも、チレッタの好みをそのまま描き出したかのようで――つまり、私の好みでもあったのだ。

 ああ、悔しい。悔しいったら! 私が先にミスラを見つけていたかった!
 私たちは長命な北の魔女。会う時なんて気まぐれで、前回から五十年経ったと思えばその半年後にふらっと喋ったりするような関係だったけれど、会うたびチレッタにミスラを恋人にする気がなくなっていくから余計に腹が立った。
 それどころか彼女は、人間と結婚することにしたのだと嬉しそうに私に言うのだ。
 ミスラっていう最高の男を拾っておきながら、そんな選択をするチレッタが信じられなかった。人間なんていう弱くて小さいものに、どれほどの魅力があったのかしら。
 苛立ったし、訳が分からなかったけれど、彼女があんまりにも幸せそうなので、つい祝福の言葉をかけてしまった。だけど、それじゃ悔しかったので、
「じゃあミスラは私がもらっていこうかな」
 と言ってみた。そしたらチレッタは、
「あんたみたいなのにミスラが誑かされるの、絶対にいや」
 そう言って笑うのだ。
 失礼な女ね。

 ある時、チレッタに呼び出されて南の国へ行った。チレッタはまだ名も無い命を宿した身体で、自分はもうすぐ死ぬのだと語った。
 私もチレッタも、オズが魔法使いを殺しまわった時期を生きたうえで、ここまで石にならずに来ている魔女だ。力のある魔法使いや魔女は、死期を予感できるというのは本当なのだと知った。
 魔法使いが石になる瞬間など、数えれば両手足じゃ足りないほどに見てきた。北ではそうしないと生きていられないからだ。でも私とチレッタには千年を遥かに超える付き合いがあった。今になって石になるのだと告げられても、何を言えばいいのかわからなかった。
 だから、私は、正解ではないことを言うことにした。
「なら、これでミスラは私のものね」
 そうしたらチレッタは、まるで歌でも歌うように軽く返す。
「やれるものならやってみたら」
 ――やっぱり失礼で、かわいげのない女。

 そのあとはぽつぽつと、思い出話をした。
 時系列なんてめちゃくちゃなまま、まるで秋の終わりの雪のように。午睡から起きた子が母を探しに来るまで続いたその時間は、お気に入りだけを集めた宝石箱のようだった。

 使い魔からチレッタの死の報せを受け取ったのは、しんしんと雪が降りつもる、ひどく冷える冬の日。
 生命の呼吸さえ雪の中に埋もれるような、何もない北の片隅。雪が落ちる冷たい音が、鎮魂歌のようだった。


 *


 黒のドレスとベールを纏えば、影の魔法に囚われた愚かな魔女になった気さえした。だけど、ああ、愚かな魔女であることに間違いはないのかもしれない。私は箒に腰かけて空を飛んでいた。昨晩降っていた雪が夢だったかのように、空は残酷に青く晴れ渡っていた。亡骸の残らない魂を迎え入れるみたいに。
 行き先は、死の湖。何度か訪れたことのある、ミスラの根城だ。
 曇った星空のようにぽつぽつと点在する人間の家。それがぐるりと取り囲む湖の表面は氷が張っている。さらに冬が深くなると氷はさらに厚くなって、今日のような天気では光を反射して目を灼くだろう。今くらいであれば、まるで昔の西の海のようにきらきら光って、ただ綺麗だ。自分が纏う黒が、より深く沈んでいくくらいには。ベールがなければ、さらにずっと美しく見えただろう。
 そこに浮かぶ小島の上で、ミスラは私を見上げていた。魔力で来るのを察していたのだろう。そっと高度を落として、彼の隣に降り立った。するとすぐに、ミスラは口を開いた。

「チレッタが死にましたよ」

 挨拶もなしに、淡々と。渡り鳥が飛んでいきましたよ、なんて、当たり前のことを言うみたいに。

「知ってるわよ。だから来たの」

 彼の隣に腰を下ろそうとして、そこに骨だけしかなかったから、やめた。近くの大きな木の葉を魔法で摘んで清めて敷き、その上に座ることにした。
 彼女の家では、葬式が執り行われるだろう。愛する夫と息子、生まれたばかりの子に囲まれて、彼女は弔われる。彼らがたかだか瞬きの間ほどしか彼女のことを見ていないとしても、彼女の家族だ。あの子が愛し、大切にし、自らの命を投げ打ってまで守ろうとした存在。千年以上の付き合いがあるとしても、立ち入れないものがある。そう、自分の心が、言っている。ミスラもここにいるということは、似たような思いがあるのだと思う。
 上の息子は魔法使いだ。きっと彼女の石は、彼のものになる。人間がその風習を知らなくとも、フィガロがいるのだ。そうなるだろう。
 ベール越しに見る湖氷は輝いているけれど、黒がその輝きを翳らせている。私はぽつりと口を開いた。

「子を産めば、自分が死ぬとわかっていたのにね。我が子を抱きしめられなくとも、その道を選んだのか」

 独り言のようだった。独り言で良かった。千年を超える付き合いがあっても、人間と結婚した頃から私はチレッタがわからなかった。生存こそ、勝利こそ全てと思い生きてきたはずの北の魔女が、何の力もない赤子のために命を落とす覚悟を決めていたのだから。
 だけどミスラは、私の言葉に返すように言葉を紡いだ。

「言っていましたよ、チレッタが。子どもを捨てて自分が生きる未来と、子どもが健やかに生きる未来。その選択肢があるなら、後の方を選ぶと」

 思わず、ミスラの方を見た。ミスラは私なんて見ないまま、ただ光る湖面ばかりを見つめていた。

「我が子というのはそれくらいに、愛おしい存在なんだって。……俺にはよく、わかりませんけど」

 ――そんな話を、したんだ。私が間違った答えを返した話に、ミスラはもしかしたら、向き合っていたのかもしれない。
 だけど、その話を聞いて腑に落ちた。彼女は根本から変わったわけでも、私の知らない彼女になったわけでもないのだと。自然に、口元が緩んだ。

「そういうチレッタのこと、意外だったけど――納得したわ。あの子、昔からずっと、家族を欲しがっていたもの。そう思える存在が欲しかったんでしょう。北の魔女なら、欲しいものは全て手に入れないとね」

 強い魔法使いと結婚して、子どもを産む。ミスラと出会う前からずっと言っていたことだ。ミスラを拾ってきて、願いを叶えるんだと思ったのに、そうしなかった。それでも最終的に、きっと、彼女が一番望む幸せな形で願いを叶えた。欲しいものを手に入れたのだ。
 南の魔女として石になっても、きっと、彼女の矜持はそれだったのだ。

「でもこれで、やっと邪魔者がいなくなったわ」

 ――だとするなら、私の矜持はこれだ。
 ベールを脱ぎ捨て、ミスラの肩に手をかけた。ミスラがこちらを見る前に力を込めると、脱力していたミスラの身体はすぐに雪の上に倒れる。彼が身体を起こす前にその上に乗った。可能な限りの防護魔法を自分の身体にかけながら。
 首元まで覆っていた黒いドレスを自分で破り、胸元を寒空に晒す。どうせドレスなんて魔法でいくらでも修復がきく。出かける前に胸元に振っておいた香水の匂いが立ち込めた。嗅覚から身体に沁みついて、思考を蕩かせる、甘美な香り。男を惑わす魔女の香水だ。はだけた彼の腹を指先でなぞり、吐息を首元に吹きかける。
 だけどミスラは、動かなかった。動揺も、混乱も、抵抗もなく、眉ひとつ動かすことはなかった。

「……なに、つまらない反応。このままあなたの身体、奪っても良いの?」
「はあ……八つ当たりはやめてもらっていいですか」

 ミスラの言葉の意味が、わからなかった。しかしその瞬間、ミスラの頬に何かが落ちる。
 晴天に降るはずのない雨粒。それは、私の瞳から落ちていた。
 それに気付けば、途端に眼球が熱をもつ。それは温かく血のように、ぼろぼろと溢れて落ちていく。それでもミスラの眉は動かなかった。鬱陶しそうに拭って、身体を起こし、私を地面に押しのける。何もしないのは、今度は私だった。

「あなたはどうして、平気なの。私よりも長い時間、あの子と一緒にいたのに」

 ハンカチで目を拭いながら、私はそう、問いかけた。ベールを脱いだ代わりに目が霞むものだから、彼の顔は見えやしない。ただひとつわかるのは、

「まだ、信じられないだけです。まるで」

 彼が、私のことを見ていないということ。
 晴れ渡る青空。彼が見上げる冬の快晴はあまりにも綺麗で、胸が痛い。変わらない表情。空を見上げる横顔はどこか陰鬱さが漂っているけれど、それは彼にとってはいつものことだ。だけど。

「ずっと、醒めない夢の中にいるみたいで――」

 そう紡がれた言葉は、痛ましかった。
 冬の冷たい空気が、その言葉を抱きとめていく。眩い太陽が抱え上げ、私以外の誰もが知らないまま、青空に消していった。




オズ ムル ファウスト レノックス オーエン シャイロック ブラッドリー/ネロ スノウ/ホワイト
フィガロ ミスラ ヒースクリフ/シノ ミチル リケ ラスティカ/クロエ カイン アーサー ルチル ***
▲目次へ














 馬小屋を覗きこんだら狙い通りの顔がいたので、私は思わず胸を撫で下ろしてからその名前を呼んだ。

「シノ」

 短い黒髪を揺らして、シノが振り返る。彼の世界が終わる夕暮れのような赤い目が苦手だという使用人も多いけれど、私は奥様が身に着ける装飾の方が似ていると思う。丸くて、大きくて、きらきらしてて。

「なんだ、ライリー」
「午後、旦那様が街にいくことになったの。昼食後すぐに向かうらしいから、準備しておいてくれる?」
「ああ、わかった。一番賢い馬を用意しておく。ヒースは行くのか?」
「いいえ、今日は旦那様だけ。というか、呼び捨てはやめなさい。呼び捨ては」
「心配するな。古株の前ではちゃんと呼んでる」

 私の前でもやりなさいよ。そう言おうとしたけど、呑みこんだ。正直もう言い飽きていた。
 ――普通の家庭はみんな、魔法使いは恐ろしく忌避すべき存在だと教わるらしい。
 だけど私は、父がブランシェットの執事、母が奥様の侍女という生まれもあり、そういった教育は一切受けてこなかった。それはそうだ。そんな教育はつまり、私と近い時期に魔法使いとして生まれたヒースクリフ様を侮辱することになる。
 そういうわけで、ヒースクリフ様はもちろん、小間使い仲間のシノも遠ざけるべき存在とは感じられない。忠誠を尽くすべき主と、年が近く何でも言い合える同僚だ。
 とはいえ私も、この国の気質が魔法使いに怯えていることはなんとなく肌で感じている。ヒースクリフ様は別だが、魔法使いだとわかったら用心するようにとは親からも言われている。――シノは別、とは言われなかったけど。それでも、話せばこんな感じだ。警戒しようとは思えないでいる。そんな私も、あの二人の師匠だとかいう魔法使いは胡散臭いと思ってるけど。
 じゃあお願いね、と自分の仕事に戻ろうとした時、シノが何かを思い出したかのように目を丸くした。

「そうだ。中に戻るよな」
「うん」
「ちょっと待ってろ」

 説明もなしに、シノは馬小屋を飛び出した。……待ってろって、私も仕事がまだ残っているのに。勝手なんだから。遅かったらヒースクリフ様を呼び捨てにしたことを告げ口してやる、と思った矢先に戻ってきたので、今回は許すことにした。

「これ、ヒースに渡してくれ」

 シノがそう言って差し出したのは、実をつけた細い木の枝だった。分かれた枝の先には、手で握れるほどの大きさの薄紅色の実が合わせて五つほどぶらさがっている。艶があって瑞々しく、見るからにおいしそう。だけれども。

「私、あんたの小間使いじゃないのよ」
「ブランシェットの坊ちゃんのためになることだぜ。そいつは夜になると実を落とすし、折って一時間以内に食わないと萎びるんだ。報酬として、一つまでならお前もつまんでいい」

 仕事も終わっていないのに。見つかったらメイド長に怒られるのは私なのだ。それに、報酬だなんて。主君に贈られたものを私が食べられるわけないでしょうが。
 ……とはいえ。シノのように外の仕事をする小間使いは、城内には入れない。シノが私を使ってヒースクリフ様に贈り物をするのは、初めてのことじゃなかった。
 この城でたった二人の魔法使いだし、シノは元々孤児だった。私も無碍には出来ず、なんだかんだ言いながらも引き受けてしまう。城の中に入る前に洗濯物が干される場所に寄り、既に乾いた布を一枚こっそり拝借する。それに木の実を枝ごと包んで、いかにも仕事をしていますというような顔をして、ヒースクリフ様のお部屋に向かった。普通、私みたいな下っ端はこんなところに用があるはずはない。誰にも見られないようにと願いながらも、きちんと届くように堂々と、扉をノックした。

「ヒースクリフ様、失礼いたします。ライリーです。シノからの預かりものを持ってまいりました」

 用件を扉越しにお伝えすると、扉の向こうから慌ただしい音がして、すぐに扉があいた。明かりを浴びて輝く金色の髪に、夏の空のような深い青色の瞳。こうしてシノを通してしかかかわることがないお方だけど、近くで見るとその眩さに世界から切り抜かれてしまった気さえする。けれど、確かにここは今までの世界と地続きで、彼は私が仕える主である。美しいものを見た幸福感を呑み込んで、私はヒースクリフ様に布地ごと枝を差し出した。こうしてみると、主君にお贈りするものとしては不躾だろうけど、こんなことでヒースクリフ様が怒ったことは一度もない。ただそれを見て、大きく溜息をついた。

「シノはまた君を遣いにやったのか。ごめんね、ライリー。君にも仕事があるのに」
「いいえ。ヒースクリフ様のためになることでしたら、なんだって。すぐに食べないと萎びてしまうと言っていましたので、どうぞお早めに」
「そうなんだ。じゃあお礼に、君にもひとつ……」
「ライリー」

 ――背後から聞こえた鬼気迫る声に、一瞬で血の気が引き、冷や汗がじわりと噴き出してきた。振り返らずともわかる。これは、旦那様の執事である父の声だ。
 父は私を押しのけるようにして、ヒースクリフ様の前に立ち、深々と頭を下げる。隣にいる私を責めるみたいに。

「ヒースクリフ様、娘が失礼いたしました。ライリー」

 そして頭を完全には上げないまま、私の方を睨む。家に帰ると穏やかに笑いあえる父だが、こと仕事となるととても厳しかった。心臓が早鐘を打ち、頭まで鼓動で揺れている気さえする。決して悪いことをしているわけじゃない、だけど、ここは確かに私がいるべきはずの場所ではない。だからといってシノに責任を押し付けたくはない。ただでさえ、彼は孤児で魔法使いというだけで肩身が狭い思いをしているのだ。本人にその自覚があるかどうかは置いといて。意味がないと知っているのに、私の身体は必死に縮こまろうとしていた。魔法も使えない私が、消えてなくなれるわけでもないのに。

「なぜお前がこのような場所にいる」
「いや、俺のために来てくれたんだよ」

 さらり、と。流麗な言葉が聞こえて、私も父も視線がそちらに向かった。ヒースクリフ様が穏やかな表情で、私と父をゆっくりと交互に見た。

「買い出しの時に、ついでに買ってきて欲しい本があったから、頼んでいて……ライリーはそれを届けに来てくれただけだ。だから責めないで」
「ついでになど……仰っていただけましたら、こちらでご用意いたしますのに」
「通俗小説だったので、少し恥ずかしくて……どうか父には内密に、お願いいたします」

 はにかむような微笑みは美しくもあどけなさまで残していて、父もすっかり絆されたようだった。父は私に失礼のないように念を押すと、旦那様の部屋の方へ足を進めていく。その背中が見えなくなってようやく、私は縮めていた身体を解放して、すぐに先ほどの父よりも深く礼をした。

「本当にありがとうございました、ヒースクリフ様……嘘までつかせてしまい、申し訳ありません」
「ううん、俺からもお礼を言わせて。ライリー」

 そっと肩に置かれた優しい手に、私は思わず顔を上げる。本来ならこのような触れ合いすら、ひどく恐れ多い相手だ。だけれどヒースクリフ様のその掌にふれると、何故だか全てを赦される気がしてくる。魔法みたいで、魔法じゃない。これはヒースクリフ様の持ち前の優しさと繊細さなのだと、きっとこの家にいる誰もが知っている。

「シノを守ってくれて、ありがとう」

 ――そんな、大層なことじゃないのに。
 私が責任を押し付けたくなかっただけ。私がシノに叱られてほしくなかっただけ。
 それなのに、まるで勲章を授けるかのような、ヒースクリフ様の言葉で――私は悟ったのだ。
 次期当主のヒースクリフ様と、小間使いのシノ。
 この城で、たった二人の魔法使い。同じかたちをした人間と、違う生き物であるという痛みと苦しみをもつ彼らは――確かに、“友達”だってことを。


 *


「おい、これ」

 その翌日。洗濯を干すために外に出た途端、シノに何かを突き出された。あまりに目の前に出されたせいで、最初はぼやけて何かもわからなかったけれど、ピントが合えばそれは昨日ヒースクリフ様にお渡しした薄紅色の果物なのがわかった。

「ヒースがお前にもやれって言うからやる。貴重なやつだから、なるべくあいつにたくさんやりたいのに」
「ふふ、ありがとう。ヒースクリフ様にも感謝をお伝えしないと。そういえば、ヒースクリフ様もあげるって言ってくださったのに、いろいろあっていただけなかったんだったわ」

 辺りを見回して、他にメイド仲間がいないことを確認し、早速口に含んだ。瞬間に濃厚な甘さの果汁が口の中に広がって、何とも言えない幸福感が全身に広がる。思わず目を閉じるほどだった。ああ、これはシノがヒースクリフ様に贈りたくなるのも頷ける。今度お使いを頼まれたら、文句を言わず引き受けてあげよう。
 一気に押し寄せた幸福の波がゆっくりと引いていって、自然に瞼が開いた時。シノはどこか怪訝そうな顔で、私をじいっと見つめていた。

「……何? 私の顔に何かついてる?」
「いや。……今日は言わないんだな。呼び捨てにするなって」
「ああ」

 そのことか。合点がいって、私は頷く。というか、すぐにそれに気付くってことは、私の反応をわかっていてずっと呼び捨てにしていたってことじゃない。舐められていたと思うと腹も立ったが、今の私は貴族の方に捧げられるほどの果実を食べて機嫌が良いので、流すことにした。

「そうね、ええ。言うのはもうやめようと思ったの」

 でも私の前だけにしなさいよね、と前置きは忘れなかった。

「……友達なんだなと思ったの。あなたと、ヒースクリフ様が」

 魔法使い、私たち人間とは違うもの。魔法で万物を、人の心さえも操れてしまう。それゆえに人々から忌避され、疎まれ、恐れられてきた。人よりも長い命をもつために、多くの魔法使いが世間から置き去りにされていくという話も聞いたことがある。
 だとしても、私は彼らとわかりあいたい。私が彼らを恐れず、尊重してかかわっていけば、いずれわかりあえると思っている。けれど。
 どうしたって、私たちとは仕組みが違う。一緒に手を取り合ってこのブランシェットを支えていく未来があったとしても、私は彼らを残して死ぬ。彼らは私たちよりも、遥かに長い時を生きていく。
 そんな二人がどうか、私たちみんなが消えてしまった後も、互いを支え合って生きていけますように。
 そう、私は願っているし――そう願えるような二人がいて、良かったと思っている。
 ――シノは私の言葉で、大きな赤い目をぱちぱちと瞬かせた。だけどすぐに、ふっと表情を和らげた、ように見えた。彼の庭であるシャーウッドの森からは、甘い花の匂いがふわりと漂う。朝の風に夜の髪が揺れて、彼は私から視線を逸らす。その姿は照れているようにも、目を背けているようにも見えた。

「……どうだかな。あ、メイド長」
「ライリー? あなた、その洗濯物はどうしたの?」
「ああっ、ごめんなさい、今干します、干して掃除に向かいますから……!」
「シノ、あなたも逃げようとしても無駄です。門のところの掃除の雑さはなんですか」
「げっ」




オズ ムル ファウスト レノックス オーエン シャイロック ブラッドリー/ネロ スノウ/ホワイト
フィガロ ミスラ ヒースクリフ/シノ ミチル リケ ラスティカ/クロエ カイン アーサー ルチル ***
▲目次へ














 ひんやり。ひやり。誰も座らないその椅子は、とってもとっても冷たくて、まるでアイスキャンディーのよう。暑い暑い夏の時期、魔法使いが呪文ひとつで、ジュースを凍らせて作ってくれる。
 だけど、椅子が冷たいのはおかしくて不思議。椅子はだれかが座るもの。ここにいていいよって、言ってくれるもの。外でおひさまが高いならなおさら。
 ここは賑わいと騒めきの中。誰かの居場所。なのに、いつまでもからっぽなのは。
 ――みんながひっそりと見つめてる。誰もいない椅子を見つめてる。
 居場所があるのに、ここに来られない誰かを思って。

 *

「……ミチル、今日も学校来ないね」
「この間、お兄さんと大きな街にお出かけするって楽しそうにしてたのにね」
「お出かけの時、何かあったのかなあ」
「お母さんが言ってたよ。ここは魔法使いと人間が仲良しだけど、都会に行くと、魔法使いが怖がられているところもあるんだって」
「そうなんだ……」

「でも、正直さ」

「ミチルの魔法も怖いときあるよね」
「ちょっと喧嘩みたいになると、物が飛んできたりするもんね」
「こないだ、チャーリーは吹っ飛ばされて怪我したよね」
「うん……頭から血が出たよ」
「ジェニーには木の枝が飛んできたことあったよね」
「うん、怖かったな……目に刺さりそうだったの。避けられたけど……」
「ゲームに負けそうになっただけで怒るんだもんね」
「ゲームなんだから、仕方ないのにね」
「勝ち負けのないゲームだけだとつまんないし」
「いつ物が飛んできたり、自分が飛んじゃったりするかわかんないもんね……」
「お母さんにも、あんまりミチルと遊ばないようにって言われてるんだ」
「私も」
「僕も……」

「……でも」

「頭に怪我した時、ミチルが薬を持ってきてくれたから、すぐに治ったんだよ」
「あ、俺がお腹痛くて学校休んだ時もそうだった!」
「僕も熱を出した時、ミチルがその日にやったこと、ノートみせながら教えてくれたな……」
「私に木の枝飛ばした時はすぐに謝ってくれたし、家にお菓子持ってきてくれたな」
「そういえば、喧嘩で魔法使っちゃうの、最近減ってきたよね?」
「確かに!」
「フィガロ先生が教えてくれてるんだってよ」
「ミチル、頑張ってるんだなあ」
「学校の勉強も、魔法の勉強も頑張ってるなんて、本当にすごいよね」
「ノート書くの、とっても綺麗だもんね!」
「ミチルみたいに書けるようになりたいんだよねー」
「それにミチル、お父さんも、お母さんもいなくて、お兄さんと二人で頑張ってるんだよね」
「僕……お父さんとお母さんがいない生活なんて、考えられない……」
「あたしも……寂しくて、毎日泣いちゃうかも」
「すごいなあ」

「学校いけないって、辛いんだよね」
「きっと今、それくらい、哀しい思いをしてるんだよね」
「学校となら、お母さんたちに何も言われず、ミチルと遊べるし」
「学校来てほしいなあ」
「僕たちにできること、何かあるかなあ?」
「みんなで考えよう!」
「私、ノート書くよ! こういうの、書記、っていうんだって!」
「大人になったみたい!」

「みんな! これ、先生が使っていいよって!」
「綺麗なガラス瓶!」
「これに、みんなでお菓子作ってきて詰めるんだよね」
「そうそう」
「受け取ってくれるかな?」
「きっと大丈夫!」
「もしまだ辛かったら、お兄さんに渡しておいてもらおう」
「渡すときはみんなで行こうね」
「うん!」
「じゃあ、明後日! 明後日みんなでお菓子持ってこようね!」
「あたし、ケーキ作ってくる! お庭の木が実をつけたの!」
「俺は母さんとクッキー作る! 母さんの、うまいんだぜ」
「ビル、裏の林に木の実取りに行こうよ」
「うん! シャディも一緒にどう?」
「行きたい!」
「みんなの気持ちをいっぱい詰めたお菓子を食べたら――」
「きっと元気になる! ――そうだよね?」
「うん、そう信じよう!」
「ミチルが元気になるように」
「また一緒に遊べるように!」

 *

 こん、こん。夕暮れに落ちる、ためらいがちのノックがふたつ。叩いた手は震えていて、だけど誇りに満ちている。
 叩いた手は一本でも、彼はちっともひとりじゃない。その背中と扉を見つめる、年の近い仲間たちがいる。
 がちゃ、と扉は開いていく。まるで物語の表紙のように。
 彼らを出迎えた青年は、弟の名を聞いて微笑んだ。
 扉は一度かちゃんと閉まる。まるで物語を呼ぶ題名のように。
 静寂、ぽつり。夕焼け、ゆらり。風はさらさら吹いていた。
 長く伸びたたくさんの影が、じわりじわりと動きはじめて。
 扉は開く。もう一度開く。まるで物語の一頁目のように。
 そこに現れる、彼らの仲間。一足早く訪れてしまった夜のように、暗く沈んだ顔をしている。
 扉を叩いた手は、今は瓶を持っていた。少しいびつなお菓子が詰まった、甘い甘いお菓子の瓶。砂糖とバター、それから果物。甘くて酸っぱい、不器用で素直な友達の匂いがしている。
 夜の顔をした少年に、若葉が芽吹く。大きな若葉の目が丸くなって、その瓶を見つめていた。
 夜の顔に、陽が昇る。穏やかで優しい、朝が来る。
 永遠の夜などなく、昇らない朝陽などないのだと、彼の顔が示していた。

 ――これはいずれ、一人の魔法使いの魔道具となる、ひとつの瓶の物語。




オズ ムル ファウスト レノックス オーエン シャイロック ブラッドリー/ネロ スノウ/ホワイト
フィガロ ミスラ ヒースクリフ/シノ ミチル リケ ラスティカ/クロエ カイン アーサー ルチル ***
▲目次へ














 ――神よ。
 あなたの使徒であるリケ様を、この世に遣わしてくださったことを感謝いたします。

 私は昔から、親が願うよりも好奇心が旺盛な子でした。
 外の世界は汚れていると言われても、外への希望と欲望を捨てられない子だったのです。
 陽射しが降れば暖かく、暖かければ心地よく、通りの店から漂う匂いは空腹を刺激しました。食べ物が立ち昇る湯気が不思議で不思議で仕方ありませんでした。家では固いパンと、薄いスープくらいしか食べたことがなかったものですから。親にねだっても、当然、買ってはもらえませんでした。今にして思えば、家のお金の多くは、教団に捧げられるものだったのです。
 もちろん、親にはそのたびにきつく叱られました。殴られたり、蹴られたりすることもありました。教団の外は汚れている。いずれ訪れる世界の終末ののち、素晴らしい世界へ導かれるために、外のものには可能な限り触れるなと。
 そのたびに泣いて許しを請いました。いくらひどいことをされても、親は親ですし、他に頼れる存在もいなかったのです。

 しかし、ある日。そうです、あなたがリケ様を教団に遣わしてくださったときです。
 教団の者はみんな涙を流して感謝をし、リケ様にお目見えできる日を待ち焦がれました。もちろん私の親もそうでした。
 私は昔から親に語られてきたのです。いずれ私たちの元に遣わされる使徒様は清らかな場所におり、代わりに我々が外の世界に触れることで、使徒様が我らを導いてくださるのだと。
 まだ何もわからなかった私は、使徒様の代わりに外の世界にいけるのかもしれないと思いました。ですが当然、使徒様の代わりだからこそ、外に行くのは必要にかられたときだけなのだと叱られました。

 それでも私は外の世界の誘惑を断ち切ることはできませんでした。
 親が教団に出かける時、私を置いていく機会があれば、こっそり家を抜け出しました。
 お金をこれっぽちも持っていなかったので、買い物はできませんでしたが、様々なものをみました。
 通りをゆく人々が笑い合う姿。店先に並ぶ色とりどりの果実や野菜。肉が焼ける香ばしい匂い。ぼろのない綺麗な洋服。
 そして何より――その時見た空の美しさ。昼間と夕暮れの境。燃える炎のような夕焼けが、澄みきった青空を吞み込もうとする時間でした。見たことのない、何にも喩えられない空の色と、家々を覆い尽くすような金色の光を、私は心底美しいと思ったのです。

 やがてリケ様は健やかにお育ちになり、我らの前に立ち、導きの言葉を授けてくださるようになりました。
 そして週に一度、教団でリケ様に罪の懺悔をする機会をもてるようになりました。
 私とリケ様しかいらっしゃらない懺悔室で、私は思いの全てを打ち明けました。
 外の世界を美しいと感じること。父と母に何度叱られても、誘惑を断ち切れないこと。あの日見た夕焼けの感動を忘れられないこと。情けなくも抱えていられず、己より幼いリケ様に全てを話した、その時のことです。

「許します。あなたは私の代わりに外の世界に触れ、穢れを引き受けてくださったのですね」

 リケ様は笑っておられたのです。私の罪を、弱くちっぽけな心を全て知ったうえで、穏やかにそう言ってくださったのです。

「あなたが外の世界を美しいと感じることも、誘惑に負けてしまいそうなことも、許します。私があなたを、導きますから」

 ――ああ。神が遣わされたというのはこういうことなのだと、その時身をもって知ったのです。
 私が外の世界を知ることを、見ることを、誰も認めてくれなかった。こっそり出かけたことが親に知られれば、涙が出るまで叩かれる。他の信者にも白い目で見られる。
 だけどリケ様は、ああ、神が遣わしてくださった方だけは、それを許してくださったのです。
 その時私は初めて、私を許してくれる存在と出会ったのです。


 *


 <大いなる厄災>が大きな被害をもたらした時、私は既に自立して王都の中心部で生計を立てていました。中心部とはいえ、大通りから離れた裏路地にある小さな店です。ちょうど自立を考えていた時に働き手を探していたので、家から早く出たかった私はそこで働かせてもらえるように頼んだのです。案の定、家を出れば気兼ねせず外を歩けるので、私にとっては幸福でした。
 ですから、賢者の魔法使い様がパレードをすると聞いて、きっとまた美しいものが見られるだろうと軽い気持ちで出かけたのです。
 ――そして、夢のような、幻のような、現実を見たのです。
 リケ様が――見間違えるはずもありません。リケ様が馬車に乗ってパレードに参加しておられたのです。最後に見た時よりも背が伸びていましたし、額に不思議な紋章もありましたが、間違いありません。
 初めてでした。陽の光の元にいらっしゃるリケ様を見るのは、初めてのことでした。
 晴れた空の太陽が降り注いで、淡金色の髪がきらきら光っておりました。まるで、あの日見た昼間と夕焼けの間の光を、そのまま束ねたかのようでした。そしてリケ様は笑っておられました。私の懺悔を聞いた時も笑ってくれましたが、それとは違います。隣の、空の色の髪をした青年の腕を引きながら、年相応の――楽しげな、愛らしい、まるで太陽そのもののような笑顔を浮かべていらっしゃいました。

 その時の感動は、どう言い表せば良いのでしょう。
 皆が汚れていると言った世界で、リケ様が笑っておられるのです。陽の光を浴びて笑うリケ様の、なんと美しいことでしょう!
 神の使徒がなんと汚らわしい、という罵詈雑言が、後ろから聞こえました。その人は何もわかっていないのです。
 世界はこんなに眩しく、光に満ち溢れ――そう思うことさえも、リケ様は許してくださったのに。

 私は涙が止まりませんでした。
 ああ。何はどうあれ、リケ様が陽の下で笑っていられるこの世界は、なんと素晴らしいことでしょう。

 この願いが教団に背くものであったとしても、私は願わずにはいられません。
 神よ。どうかリケ様が、この明るい世界の中で、あのように幸福に笑い続けられる世界が続きますよう。 




オズ ムル ファウスト レノックス オーエン シャイロック ブラッドリー/ネロ スノウ/ホワイト
フィガロ ミスラ ヒースクリフ/シノ ミチル リケ ラスティカ/クロエ カイン アーサー ルチル ***
▲目次へ














魔法使いの邂逅

「こんなに美味しい紅茶を淹れてくれるなんて。もしかして君が、僕の花嫁?」

 一瞬の出来事だった。
 義姉さまの誕生日パーティーに来てくださった、高名なチェンバロ奏者。演奏を終えた後の感謝のもてなしを、末娘である私がし始めていた、その矢先。
 紅茶を一口飲んだ彼がそう言って、何もないところから鳥籠を出したかと思ったら――突然視界が揺れて、足を後ろから蹴られたかのような衝撃があって、手足の感覚が消えた。何が起きているかわからないうちに、いつの間にか私の世界は、金の柱に囲われた檻の中。
 檻は彼の手に握られて、喧騒の中で大きく揺れた。落ちてしまわないように必死で、足で止まり木にしがみつく。
 ……足で止まり木にしがみつく?
 無意識の行動に混乱して、私は私の身体を見た。白い羽毛の生えた丸い身体と、腕の代わりに広がる翼が、今の私だった。
 
 ――ああ、ああ、ついに来たのね!
 この日をずっと待っていた。
 ついに、すてきなひとが――私を迎えに来てくれたんだわ!


 *


「ごめんなさい、突然こんなところに連れだしちゃって……」

 街の外の平原で、赤髪の下男――会話を聞いた限り、クロエという名前の子が何度も私に頭を下げた。隣にいる彼――ラスティカ様も、申し訳なさそうな顔をしている。
 鳥籠から解放されて、私は元の姿に戻った。ああ、ああ、私の旦那様になる方が、こんな素敵な奇術ができるなんて! 私は高揚のまま口を開く。

「元に戻してもらえたのだもの、構わないわ。それに、姿を変えるなんてすごいのね! これは手品?」

 そう聞くと、二人はぱちぱちと目を瞬かせた。クロエは不安そうにラスティカ様を見たけれど、ラスティカ様の方は胸に手を当てて、真摯に私に向かいあう。

「いいえ、これは魔法です。私は魔法使いなのですよ、ランドール家のオルタンス様」

 ――魔法使い。その現実にぶつかって、一気に目の前が暗くなった。
 そうだわ。その奇術は、魔法科学技術にも似ていた。一切の機械もなしにできるなら、それは魔法だ。
 傲慢で身勝手で、呪文ひとつで万物を操る、恐ろしい魔法使い。私を迎えに来てくださった方が、そんな恐ろしい存在だったなんて……。……ということは、つまり……。

「魔法使いが私を攫いに来たのね……? じゃあきっとこれから、本当の王子様が迎えに来てくれるんだわ……!」

 物語のお姫様はそういうものだ。ラスティカ様みたいな美しい方が旦那様じゃなかったのは残念だけど、本当の王子様ならきっとさらに見目麗しい方のはず。
 私は二人に背を向けて平原の向こうを見上げた。きっと今頃慌てて、私を助けに来てくれるはず。
 だけど、地平線は動かない。草原が風に吹かれて、さらさらと空しく揺れるだけ。そのうち、クロエの声が、躊躇うように背中から触れてくる。

「あのー……ごめんなさい、ラスティカもあなたを攫うつもりじゃなかったんです。だから、そのぅ……」
「探している花嫁と間違ってしまって。申し訳ありませんでした。すぐに君をお義姉様のパーティーにお連れするよ」
「……間違、い……」

 ――薄々わかっていたのだ。わかりたくなくて、わからない振りをしていただけで。
 ラスティカ様が私を連れ去ったのも、私に素敵な旦那様が現れたことも、待ち受ける悲惨な未来から逃げられたと思ったことも。
 全部全部、ただの間違いだったっていうこと。

「私を花嫁にしてくださる方が、現れたと思ったのに……」

 それを自覚してしまえば、あの一瞬で天に舞い上がった気持ちが地に墜ちて、その痛みにたまらなく涙が溢れてくる。せっかくメイドがしてくれたメイクもあっという間に流れていくけれど、ぼたぼたと落ちる涙は止められなかった。
 さらりと近くで草が鳴って、二人が私の傍らに腰を下ろしたことがわかる。そっと戸惑うように肩に手が触れた。

「もし良ければ、話を聞かせてくれませんか。何か悲しいことを抱えていらっしゃるのですね」

 涙を拭いながら顔を上げると、そう言ってくれたのはラスティカ様だった。広大な海のように穏やかで優しい青の瞳に見つめられると、この目は私のことを何でも包み込んでくださる気がした。
 だから、私は自分のことを口にすることにした。
 たくさんいる兄弟のうちの末娘。そんな私の役目は、金持ちの貴族に嫁いで結納金を家に入れること。いま一番の候補に挙がっているのは、三十も年上の侯爵だ。
 人身売買と言っても過言じゃない。だけど貴族は家のために生きる者だ。そういったことは、特にここ西の国ではあちらこちらで起きている。
 ――数百年前、似たような境遇の方がいた。けれどその方は家を出て、高名な植物学者になった。
 だけど、私には何もない。熱中することも、知りたいと思うことも、人に比べて特別秀でていることもない。
 私がこの運命から逃げるには、誰か素敵な人に見初められるしかない。
 ――途切れ途切れで、声も震えて、格好悪い話だったと思うけれど。ラスティカ様もクロエも何も言わず、じっと私の話を聞いてくださっていた。

「……辛い話をさせてしまったね。話してくれてありがとう、オルタンス様」

 ラスティカ様が柔らかく微笑んでくれた。濡れた心をあたためてくれるような、優しい微笑みだった。
 それからラスティカ様は、クロエに向かって何か耳打ちする。クロエは目を大きく見開いてぶんぶんと首を横に振るけれど、ラスティカ様に肩を抱かれると、やがて困ったようながら頷いた。ラスティカ様がクロエの鞄を探り、何かを取り出すと、それを私に差し出してくる。

「これは、辛い思いをさせてしまったお詫びです。この子、クロエが作ったんですよ」

 ――それは、スカーフだった。端にあしらわれた刺繍に、私は一瞬で目を奪われた。
 薄紅と黄色の糸で縫われた可憐な花の刺繍だった。単色ではなく、さまざまな色が使われて、平面のはずなのに立体感がある。ところどころに金糸やビーズがあしらわれ、太陽の下で見るときらきら輝いて美しい。黄緑色で縫われた葉や蔦は布の上で躍動し、まるで今も光を浴びて伸び続けているみたいだった。
 貴族の嗜みとして、習ったことはある。けれど一色の糸で誰かのイニシャルやどこかの家紋をいれるだけ。心が踊ったことなんてなかった。だけど。
 これを見て、私はいま、とてもわくわくしている。

「素敵……! 刺繍って、こんなに美しくできるの? これも魔法?」
「ち、違います。これは、俺が自分の手で縫ったんです」
「手で? 魔法を使わず?」
「はいっ」
「魔法じゃないのに、こんなに美しいものが作れるの?」
「っ……作れます!」

 先ほどまで自信なさげに俯いていたクロエは、今は真っ直ぐに私の方を見ていた。

「俺も最初は、全然うまくできなくて……でもたくさんたくさん練習して、ここまで作れるようになったんです。もっともっと上手になりたいなって、今も思ってて!」

 こわばっていたクロエの顔が、どんどん明るくなっていく。まるで陽射しを浴びて開く花のように。ラベンダーに似た色の瞳が、爛々と、いきいきと輝いていた。その表情が、言葉を真実だと伝えている。何度も何度も指を刺しながら、それでも諦めずに針と糸に向き合う少年が見えるかのようだった。
 もう一度、スカーフに視線を落とす。甘い香りがしてきそうなほど、凛と咲いている刺繍の花。思わず胸の中に、それを抱きしめた。

「……私も、こんな美しいものを、作れるようになりたい!」

 こんな風に何かをやりたいと思うのは、生まれて初めてのことだった。ただ誰かが迎えに来るのを待つだけだった私が、自分のためだけの一歩を踏み出せた。
 私のその一歩を、ラスティカ様もクロエも優しく頷きながら見守ってくれた。

「できるよ。頑張れば、必ず!」
「今度お会いするときは、あなたの素敵な刺繍を見せてください」
「俺も見たいな、すっごく楽しみ! あっ」

 クロエは何かを思い出したかのように、自分の鞄をごそごと探り出した。やがてそこから出てきたのは、使い古されて頁の端がぼろぼろになった本だった。

「これ、俺が昔使っていた図案集! 簡単なものが多いから、練習になると思うんだ。何度も見たからぼろぼろだけど……あっ、ごめんなさい!」

 だけど何かを思い出したかのように、さっとそれを自分の背中に隠した。先程まで晴れやかに笑っていた顔が、今は叱られるのを覚悟する子どものように怯え切っている。

「し、失礼な言い方になってしまって……ごめんなさい。それに、こんなぼろぼろなの、貴族のお嬢様にあげるの、失礼ですよね……」
「いいえ」

 敬語かどうかなんて、本が綺麗かどうかなんて、今さらどうだっていい。私は背中に隠されたクロエの手を取って、もう一度その本を陽の下に晒した。
 汚れてぼろぼろなのは、それだけ彼が頑張ってきたことの証。そんな彼がいま、あんなに綺麗な刺繍ができるのだから、私だって同じように努力したい。

「もしあなたがよろしければ、くださると嬉しいわ。私、これでたくさん練習するわね!」

 クロエはその目をまんまるにしてから、照れくさそうに笑って、もう一度本を私に差し出してくれた。その本は見た目よりも随分と重かった。彼が努力してきた時間が、そのまま乗っている気がして――私は思わず、その本を胸に抱きしめた。


 *


 約束通り、二人は私を城に戻してくれた。城は大変な騒ぎになっているかと思ったらそうでもなく、専属のメイドが泣きながら迎えてくれただけだった。まあ、そうよね。もう少しで跡継ぎを産む義姉さまのパーティーの方が大事でしょう。優先されないのにはもう慣れている。
 いま大事なのは、刺繍をやりたいという気持ち、ただそれだけ!
 パーティーでもう役目もない私は、メイドに刺繍道具を持ってきてもらった。そしてこの先、それはずっと私の部屋を離れなかった。
 私は刺繍に夢中になった。最初は何度も怪我をしたけど、一本の糸から絵ができていくのが楽しくて仕方なかった。嫌なことがあっても刺繍をしている間は全てを忘れていられた。初めにやった時はあんなにつまらなかったのに、糸に色を付けて好きな絵柄を縫えると思うだけで、こんなに心が踊るなんて。
 クロエに貰った図案を参考にしながら、たくさん購入したハンカチに思うまま刺繍をしていった。はじめはワンポイント、それから装飾を少しずつ足して。花、鳥、蝶、月と星が瞬く夜空。誰かに媚びるでもなく、ただ自分の好きなものを心の向くままに縫い上げた。あの日から一年が経つ頃には、ハンカチ一面に刺繍をすることも苦ではなくなっていった。
 ――それが起きたのは、一年と少しが経った頃。夏至祭で行われた舞踏会での出来事だった。

「ああ、そちらのお嬢様。ハンカチを落とされましたよ」

 その言葉に振り向くと、確かにそこにいらした紳士の方が持っているのは私のハンカチだった。太陽の高い夏至に相応しいように、金と銀の糸をたっぷり使って刺繍した、私としても気合の入ったハンカチだ。
 私は慌ててドレスの裾を持ち、頭を下げる。その方の顔には見覚えがあった。上質な織物を生産することで有名な領地を持つ、由緒ある侯爵家の次期当主様だ。

「失礼いたしました。拾っていただき感謝いたします、セドリック・オルバーン様」

 礼をしたあと、顔を上げた。けれど、ハンカチは差し出されない。セドリック様がじっと、私のハンカチを眺めていた。

「……これは、君が刺繍をしたの?」
「はい、僭越ながら……」
「すごいな」

 セドリック様の目線がハンカチから私に移る。私より五つばかり年上だっただろうか。鼻筋の通った美しい顔が、花を慈しむように綻んでいく。少し日に焼けた頬が、ほんのりと薔薇色に染まっていた。

「目を奪われてしまいました。どうかこのハンカチを、私に下さいませんか」
「……そ、」

 言葉を失った。一気に頬に血が上り、顔が熱くなっていく。
 貴族にとって、ハンカチを用いたやりとりは――愛を示すものだ。

 私の運命が、動いていく。
 花嫁と間違えられて、鳥籠にしまわれた日――初めて心の踊る刺繍を見た時。
 あの二人と、出会ってから。




オズ ムル ファウスト レノックス オーエン シャイロック ブラッドリー/ネロ スノウ/ホワイト
フィガロ ミスラ ヒースクリフ/シノ ミチル リケ ラスティカ/クロエ カイン アーサー ルチル ***
▲目次へ














 カイン騎士団長が、王族以外の前で膝をつくのを、初めて見た。
 上下する肩。後ろにいる俺まで聞こえてくる荒い息。腕からぼたぼたと滴る血。
 そんなカイン騎士団長を前にして、その魔法使いは笑っていた。
 箒の上で足を組んだ、曇り空の中に溶けていきそうな銀色の魔法使い。
 全員、そいつの呪文ひとつで吹き飛んだ。地面や壁に叩きつけられ、意識を失っている奴もいる。立ち上がったところで見えない刃や衝撃が飛んできて、何度も地面に伏せられる。おぞましい夢を見せられて、立ち上がる気力を奪われる。
 最後まで立っていたカイン騎士団長が、膝をついた時。その魔法使いは箒から降りてきて、騎士団長の耳元で何かを囁いた。
 その瞬間、崩れかけていたカイン騎士団長の肩に力が入った。剣を握る手に力を込めたかと思うと――不可思議な風が、そこから生まれたように吹き荒れる。
 しかしそんな、ありえない光景ですら、銀色の魔法使いの指先ひとつで搔き消された。カイン騎士団長の歯軋りがぎりっと届いて、そして。
「意識のある奴はない奴を抱えて逃げろ! こいつは――俺が何とかする!」
 無茶な上官命令に、情けなくもがきながら、俺たちは従うしかなかった。王宮の騎士団だという誇りも捨て去り、地を這うようにして仲間を拾い上げ、まるで惨めな虫けらのように逃げ出した。

 背中から聞こえた、この世のものとは思えぬ苦痛の絶叫が、火傷のように耳元にこびりついた。


 *


 カイン・ナイトレイの騎士の称号を剥奪する。よって騎士団長の任は解かれ、次の団長は追ってアーサー王子より任命される。
 ――“銀色の魔法使い”の襲撃後。まだ療養の必要な団員も多い中、王宮の使いは俺たちを寄宿舎のホールに集めてそう告げた。そこに、カイン団長の姿はない。
 俺たちは、何も言えなかった。ただそれを黙って、俯いて聞いていた。使いの男(恐らく身分は俺より上だろうが、敬おうとは思えなかった)は、静かすぎる俺たちを訝しむような顔をしながらも、そのまま寄宿舎を出ていった。
 かちゃん。扉が閉まった途端に、俺は立ち上がった。同時にがたがたと音が鳴り、至るところで椅子が揺れる。同じようにした奴が、このホールに何人もいたのだ。
 みんな、向かう先は一つだった。階段を駆け上がり、何度も訪れたその部屋を目指す。足を怪我していない俺が、そこへ一番に飛び込んだ。

「……カイン団長!」

 ノックもせずに開けたそこでは、靴下がソファに積み重なっていた。床に並んだだけの靴、中央に置かれた鞄の中には、服が雑に突っ込まれている。その鞄を前に途方に暮れた顔をしているのが、カイン団長だった。

「ああ、みんな、ちょうどよかった。もし良ければ手伝ってもらえるか? 片付けるのは苦手だし、目もこんな調子だからさ」

 そう言う団長はいつもみたいに笑っているのに、その姿は息が詰まるほどに痛々しい。左目は大きな眼帯が覆っていて、その下の頬は何かに引っ張られるようにひくひくと動く。それは苦痛のようで、団長はたびたび痛みに耐えるように眉を顰めていた。
 大怪我をした団長が病院から寄宿舎に戻ってきたとき、誰もがその左目のことを気遣った。事情を尋ねても、からりと「落ち着いたら話すよ」というだけだった。しかし、噂はあっという間に広まる。治療を担当した看護師から聞いたという話では、その左目には本来の金色とは違う、赤い目が埋め込まれていた、とか。
 赤い瞳は、銀色の魔法使いと同じ色だった。無関係とは思えない。
 その荷造りだって、本来なら必要ないはずだ。どうして団長が騎士団を抜けなければいけない。誰よりも強く、誇り高く騎士らしい、俺たちを守ってくれた団長が、どうして。悔しさとやりきれなさが、言葉になって口から滑り落ちる。

「……本当に、行ってしまうんですか……」
「仕方ないだろ、騎士の称号を剥奪されたんだ。俺はここにはいられないよ」
「っ……自分はっ」

 俺の隣にいたレオが、震えながら声を張り上げる。剣の腕は確かながら、出しゃばることのないレオには珍しいことだった。

「カイン団長に憧れて、カイン団長に教えられたから、ここにいます……。あの日のことだって、あなたがいなければ俺たちはみんな死んでいた。あなたは俺たちを、助けてくれたのに……っ」

 そして、彼の言葉は、俺たちの多くの気持ちと全く同じだった。
 ニコラス前騎士団長に打ち勝った剣の腕は、圧倒的だった。あざやかな剣の動きと力強さに誰もが魅了されたし、そうなりたいと皆が願った。その上、カイン団長の教えは的確で、彼の言葉を反芻しながら動けば、剣はまるで三本目の腕であるかのように自在に動いた。力も乗った。それを見ると、団長は自分のことのように喜んで笑うのだ。肩をがっしりと組んで、頭をぐりぐりと撫でて、よくやったな、と。そのたびに、まるで幼子に戻ったかのように喜びで全身が満ちた。
 あの日のことも、レオの言う通りだ。人生で一番の屈辱で、恥だった。カイン団長を置いて、尻尾を巻いて逃げ出すしかなかった。自分に抱いていた誇りを、此処にいる全員が失った日。
 なのに、騎士の称号を、俺たちはまだ持っている。
 助けてくれたこのひとから、奪い取ったも同然で。
 ――それでもカイン団長は、俺たちに向かって、微笑んでいる。

「俺だって納得はいってない。こうなると思ったから魔法使いだってことを隠してたが、魔法使いで何が悪いんだって思いもあるさ。だけど」

 自身の、きっと確かであろう思いを吐き出したうえで、それでも笑っている。

「魔法使いだってばれた今、無駄に抵抗すると、アーサー様にも迷惑がかかっちまう。そうなったら、それこそ騎士の誇りに関わるだろ?」

 こうやって自分たちのために悪足掻きをしている俺たちが、情けなくなるくらい。カイン団長は先の未来と、そして仕える主君のことを考えている。
 だとしても悔しさは消えない。一緒に前だけを向けるわけじゃない。俺たちは団長よりもずっと弱くて脆い。
 魔法使いのことを、今までどう思っていただろう。自分とは違う兵器。まじないひとつだけで長い時を生きる、ずるい生き物。きっと人生の中で、交わることのないもの。
 全て違った。目の前で団長の魔法を見たからこそわかる。団長は、今まで魔法を使ってなんていなかった。使えるのに使わないで、俺たちと同じ剣一本で戦っていた。なのに、“使えるから”という理由でその全てを剥奪される。俺たちとは違うというだけで、排除される。
 そんなの耐えられない。理不尽で、やりきれなくて、なのにどうしようもできなくて、目の裏が突然強い熱をもった。それは俺だけじゃなかったようで、後ろからどんどん嗚咽のような音が滲み始めていた。それを見たカイン団長は、近くにいた俺とレオの肩に手を置いた。ぽん、と、いつものような気軽さで。

「こら、騎士が泣くな。俺はもう、騎士ではなくなるが」

 それからどんどん、身体を後ろへ。嗚咽を漏らす奴らの肩や背中に、大きくて力強い手を置いていく。支えていく。まるで、これが最後だと告げるみたいに。

「この国と、民と、それを守る王族の方々に誇りを持ち、守る。その気持ちはずっと、忘れないでいるつもりだよ。そして」

 そうして、俺たちの中心に立ったカイン団長は、俺たち一人一人の顔をぐるりと見た。その表情は、ずっと笑っている。情けなく泣く俺たちの代わりに、騎士としての務めを果たすように。

「そうするように教えたお前たちが、俺のあとをしっかり継いでくれるって、信じてるんだ」

 ――その言葉に、さらに俺たちは泣いた。その言葉はカイン団長の口から聞くと、重荷ではなく勲章になった。
 そうして、カイン団長は騎士団を去った。多くの言葉と鮮烈な剣筋、そして、眩い星を一人一人の胸に刻みこんで。


 *


 王都は人々の熱気に包まれていた。街並みに厄災の爪痕が残っていても、人々は家や店を飾り付け、カラフルな紙を千切ってバスケットに入れている。通りを囲む表情には笑顔が溢れ、パレードが来るのを今か今かと待ち焦がれていた。
 賢者の魔法使いのパレードは、護衛を騎士団が担当する。今年はカイン前騎士団長だけでなく、アーサー様も選ばれているというから、気合が入るというものだ。俺は直属の部下を集め、一番先頭をゆく馬車を見せた。

「よく見ておけよ。こちらがアーサー様と、カイン前騎士団長が乗られる馬車だ」

 外装も内装も他の馬車と大きな変わりはない。差をつけると他の国にとやかく言われかねないからだ。しかし、この馬車の手入れが一番入念にされているのは事実だった。主君と憧れの人が乗る馬車を見た部下たちは、まるで子どものように目をきらきらさせていた。俺は喉の奥から零れる苦笑を飲み込んだ。

「この辺りは現団長の隊が護衛する。俺たちはもう少し後ろのあたりだが、この国の王子が乗った馬車だ。滅多なことがないようにしなきゃいけないからな」
「た、隊長!」

 一番若いのが、緊張した面持ちで俺を呼んだ。呼んでから周りを確認する危なっかしい奴だ。確認したうえで、好奇心と不安が入り混じった顔で、声を潜めて言葉を続ける。

「カイン前騎士団長の時から団員だったんですよね。どんな方だったんですか?」

 そいつの言葉に、他の奴らも揃って俺を見た。こいつらは騎士団長が変わってから入ってきた奴らだ。あの方が団長だった時代を知らない。
 得意な気になって、俺は肩を竦めてみせた。心身ともに傷ついたあの時も含め、あの人の元で剣を振るえたのは、間違いなく俺の誇りだった。

「――お前たちも話は聞いているだろうが」

 あの短い期間は、人生の中では瞬きほどの時間だったとしても。その輝きを忘れることはないだろう。
 俺たちは騎士らしくなく、みっともなく泣いて終えていても、あのひとは確かに笑っていたのだ。

「まず誰よりも強い。現騎士団長だって、一度も勝ったことがなかったんだ。それに、一言アドバイスをもらうだけで、剣が光る」

 馬車に視線を送る。他の国の魔法使いたちと変わらない馬車。ここに、アーサー様と賢者様と、カイン団長が乗るのだという。
 あの日、あの人が向けてくれた信頼を、裏切りたくない。裏切るわけにはいかない。
 だってカイン団長は、今はアーサー様のお隣で、魔法使いとして世界を守っておられる。ご自身の言った言葉をその通りにしているから。
 あの人から教わったことを全て胸に抱いて、俺たちは、この剣でこの国と民を守るのだ。
 俺はそっと、胸に手を当てる。そこにある大切なものを、確かめるために。

「励ましの言葉ひとつで、勲章を授かったような心地になる。――すごい方だったんだ。本当に」

 その勲章は、この胸に今も、いつまでも。




オズ ムル ファウスト レノックス オーエン シャイロック ブラッドリー/ネロ スノウ/ホワイト
フィガロ ミスラ ヒースクリフ/シノ ミチル リケ ラスティカ/クロエ カイン アーサー ルチル ***
▲目次へ














 あの日。新月の、星々の歌が聞こえてきそうな夜。公務からのお帰りの際、アーサー様が橋を歩いて渡りたいと言った日のことを、私は今でも覚えているのです。
 王妃様の侍女である私も馬車から降り、その麗しいご家族の様子を後ろからそっと眺めておりました。わんぱくで勇敢なアーサー様は、念願の橋の上に立てて嬉しかったご様子で、その小さなおみ足で駆けだそうとするのを陛下がお止めになっていました。
 そんなアーサー様へ、王妃様は美しい手を差し出されました。アーサー様がそちらをきゅ、と握ると、王妃様の反対の手が天へ伸び、人差し指が空を指したのです。
「ほら、空を見上げて。真っ暗な中にひとつ、ふたつときらきら輝くお星様があるでしょう……」
 その後に続く、穏やかで、ささやかで、やわらかな歌。世界で一番優しくお美しい光景に、侍女という身でありながら、瞳の裏が熱くなりました。あの瞬間のことを一生忘れずにいたいと、流れもしない星に強く願ったものです。
 ――それから、一年も経たない日のことでした。
 王妃様が、アーサー様を捨てるように家臣に命じたのは。

 *

 王妃様がお輿入れされた時に、父様の推薦が通って私は侍女となりました。行儀見習いも兼ねた任命で、貴族同士の癒着と言われればその通りなのでしょうが、王妃様は年の近い私が侍女になったことを喜んでくださいました。
 美しい姿勢と所作、そしてお優しくお茶目だった王妃様のことを、不躾ながら私はすぐに好きになりました。私たちはたくさんの話をし、たくさん笑い合いました。ですから、私の縁談がまとまった後も、王妃様の侍女であれるように旦那様に願い、そのようにしていただいたのです。
 王妃様がアーサー様を身籠られた時は、何度もその幸せを分かち合いました。身体に良いハーブや果物、アロマを共に調べ、私からも何度も贈り物をいたしました。日々大きくなっていくお腹を共に慈しみ、お会いできる日を待ち焦がれたものです。勿論それは私だけでなく、国中の誰もが同じ思いでいました。
 ですが、お生まれになったアーサー様が魔法使いだとわかった時、城の空気は一変しました。
 それまで媚びへつらうようだった者たちが、アーサー様のお生まれを王妃様の不貞や謀略だなどと陰で噂し、白く冷たい眼差しを向けるようになっていったのです。下賤な眼差しも不愉快でしたが、あのお優しい王妃様を蔑む様子が私は我慢なりませんでした。ですが、王妃様がお止めになるので、何も言えないでおりました。
 王妃様は悩み、苦しみ、それでも日々すくすくとお育ちになるアーサー様を愛おしく思い、精一杯愛そうとしておられました。
 ですが疑惑の眼差しも言葉も日々大きく、増えていくばかり。貴族社会で生きてきた王妃様は、陰で囁かれる言葉にもとても敏感でいらっしゃいました。王妃様のお近くにいる者がどれほど跳ね返そうとしても、王妃様はその言葉に心身を病まれていきました。私には、何もできなかったのです。
 ですからあの時、満天の星の下で見た橋の上での光景は、そのまま水晶の中にとどめておきたくなるくらい、幸せで愛おしい時間だったのです。
 あの王妃様が、冷酷さからアーサー様を捨てたのではありません。そこまで追い詰めた愚かな人間たちが、アーサー様を北の大地へと連れ去ったのです。
 そして、その王妃様を癒すことのできなかった、私たちが。

 ――十年近い空白を経て、アーサー様は城に戻られました。
 あの魔王オズの元にいたと聞いて、気を失ってしまいそうになりましたが、私たちの前にお姿をお見せくださったときに、私たちの不安や絶望は全て飛んで行ってしまいました。
 とても立派な青年だったのです。あの時の無邪気で、わんぱくな雰囲気を残しながらも、その瞳にはいずれこの国の君主たりうる優しさや聡明さが宿っておりました。
 年の近いカイン騎士団長に「かっこいいな」と素直に口にされ、城の者に分け隔てなく朗らかに声をおかけになる。空白の間を埋めるような膨大な量の君主教育さえ健気にこなし、その合間に御父上である陛下の元へ足をお運びになっている。
 そのお姿は、とても十年近く親元を離れたとは思えないような――魔王の元でお育ちになられたとは思えないほど、ご立派でした。
 ああ。愚かなことに、私はその時思い知ったのです。
 私たちが犯した罪の重さを。あのような仕打ちを受けながら、朽ちず、腐らず、懸命に、まっすぐ育つような方に、一体何をしてしまったのだろうと。
 きっとそれは――王妃様も、一緒だったでしょう。
 アーサー様が戻っていらしても、王妃様は会おうとはせず、さらにお部屋に閉じこもるようになりました。
 王妃様にとっては、ご自身の罪を見せつけられているようなものなのでしょう。アーサー様が、何故、と糾弾してくださったほうが、まだお気持ちが楽だったかもしれません。
 だとしても――だとしても。あの美しい橋の上での光景を忘れられない身としては、叫びたくもなるのです。もう、私の口から進言できないことであっても。
 どうか王妃様をお助けください。
 どうか、王妃様の眼差しを――“あれ”から、背けてほしいのです――。

「ハリエット!」
 王妃様への部屋へ向かう途中に、名を呼ばれました。振り返ると、そこにいらしたのはアーサー様でしたので、咄嗟にドレスの裾を持ってご挨拶を申し上げました。「そんなに固くならずとも良い」といつも仰っていただけますが、そういうわけにもございません。それでも促され、顔を上げますと、お優しい眼差しがどこか不安そうに揺らいでおりました。
「母上の様子はどうだ?」
 ――そう、寂しそうな、心配そうな、柔らかなお声。それを聞いて、私の頭には、あの星の数え唄が紡がれていきました。わんぱくな男の子が転んで怪我をしないよう、手を繋ぎながら唄われていたあの歌。
 それくらい、我が子を慈しむ王妃様の声に、似ておられたのです。
 堰を切ったかのように、涙が溢れてきました。王子殿下の前ではしたないとわかっておりますが、涙は止まりませんでした。アーサー様も戸惑い、慌てて、私の背に触れてくださいます。恥ずかしい気持ちの反面、そのお優しさはとても暖かでした。
「アーサー様……ご相談が、あります」
 ハンカチで涙を拭き、無礼を詫びてから今一度頭を下げました。
 不可解なことが起きてから、ずっと誰に頼ればいいのか悩んでおりました。私に魔法や不思議の力への教養はありませんし、そのような知り合いもいないと勝手に決めつけておりました。
 ですが、ここにいらっしゃいました。魔法の力を持ち、先日賢者の魔法使いにも選ばれた方が。
 ――王妃様をお救いになれるのは、アーサー様しかおりません。
「王妃様の元に、喋るヒバリが来るのです。あなたの名前を騙るヒバリです」
 アーサー様の名前を騙り、愛を求めるいじらしいヒバリ。王妃様はすっかりそれに心を奪われ、本当のご自身の息子だと思っている。
 ――いいえ。王妃様もきっと、本当はわかっておられるのです。それは都合の良い夢なだけだと。
 二十年近く共にいた侍女として、夢から醒める時を、教えて差し上げないといけない。

「王妃様の子は貴方だけです、アーサー様……!」

 都合の良い夢を見ているのは、私も同じだとしても。




オズ ムル ファウスト レノックス オーエン シャイロック ブラッドリー/ネロ スノウ/ホワイト
フィガロ ミスラ ヒースクリフ/シノ ミチル リケ ラスティカ/クロエ カイン アーサー ルチル ***
▲目次へ














 雲のない夕焼けは余すところなく世界を橙色に染めていた。昼間は子ども達の賑やかな声が響く教室も、この時間になればただのひとつの箱のよう。ねじまきが壊れたオルゴール箱みたいに、静かで、さみしい。昼間とがらっと表情が変わるから、毎日のように来ている場所でも、記念日かのように特別な気がしてくる。静寂も、孤独も、高揚も。全部ひっくるめて、この世界は綺麗だった。
 そんな私だけの特別が、がら、という扉の音で消えていく。机の長くて濃い影を足元に落としたその人は、私の待ち合わせ相手だ。

「ごめんね。待たせちゃったかな」

 夕焼け色に染まった髪を揺らして、気遣うように微笑む。静かで上品な足音でこちらに近づいてくる彼に、私も微笑みを返した。

「ううん。私も今来たところ」

 すらりと自然に出てきた言葉は、まるで小説に出てくる恋人たちみたいだ。現実は全く違うのだからおかしくて、笑ってしまいそうになる。

 ルチル・フローレス。魔法使いの教師で、私の同僚。
 彼は明日、雲の街を出ていく。
 ――この世界を守るために。


 *


「ダニエルは甘えん坊でね。不安になると身体をくっつけてくるんだけど、一度ぎゅって抱きしめてあげると安心して何でも頑張れるようになるんだ」

 賢者の魔法使いに選ばれたルチルは、明日から中央の国にある、魔法舎、というところで暮らすそう。今までいらした賢者の魔法使いの皆さんは、<大いなる厄災>が訪れるときだけ街を出ていたけれど、今年は大きな被害が出たから、次はそうならないように皆で暮らすのだという。
 今までルチルが担任していたクラスも、そのままではいられない。でも、この環境下でクラスの子たちをばらばらにするのもかわいそうだ。だから、クラス丸ごと私のクラスに合流することになった。今はルチルに、子ども達が不安なく過ごせるように、一人一人の個性を教えてもらっている。
 ルチルが今まで積み重ねてきたものを、私が預かることになる。

「ガーベラは強い言葉を使ってしまうことが多いけど、本人もわかっているから、優しく声をかけてあげてほしいな。アイリスは字を書くのがとても綺麗。でも身体を動かすのは好きじゃないみたい。無理強いは良くないけど、友達と遊ぶのは好きだから、みんなでゲームとかに誘ってあげれば、身体も強くなるんじゃないかなって思ってるんだ」

 子ども達のことを語るルチルの言葉は、まるで歌のよう。朗読と違って手元のノートにそのままの言葉が書いてあるわけでもないのに、澱みなく紡がれる言葉の中に、彼が今まで子ども達と真摯に向き合ってきた事実が込められている。悩んだり、試したりしながら、子ども達が心身ともに健やかに過ごせるように心を砕いてきた。
 そんな彼の軌跡を見ていると、自然に溜息が零れてくる。

「すごいなあ。本当によく子ども達を見てるんだね」

 感嘆の溜息だ。こうなるより前から、子ども達とかかわる彼を見ながらずっと思っていた。
 授業の合間にも丁寧にひとりひとりかかわって、その子が困っていることや、苦手としていることに一緒に向き合う姿を見ていた。学校に来るのは素直で元気の良い子ばかりではない。教師という存在を警戒する子、一時でも親と離れることに不安を感じる子、年の近い子とのかかわり方がわからない子、様々な子たちが集まる。だけどそのルチルのかかわりに、それぞれの足取りで、みんな心を開いていった。まるで春先に少しずつ蕾が膨らんで、風が暖かくなる頃に色とりどりの花壇ができあがるみたいに。

「ルチルが行ってしまうって聞いた時、みんなすごくショックを受けてたものね。ダニエルなんか、目に涙をいっぱい溜めてて」

 送別会は今夜、行われる。選ばれた4人はみんな雲の街に縁が深かった。街の広場では今頃、4人を中央の国へ送り出すための準備が行われているはずだ。それぞれの家で得意料理を準備して、ありったけの椅子やテーブルを運び出し、花で広場を飾っている。その手伝いをしながらも、子ども達の心は不安と寂しさに満ちているだろう。明日から私の生徒になる、あの子たちは。
 永遠の別れではないとはいえ、大好きな先生が遠い所へ行ってしまうのだ。私は明日から、心にぽっかり穴が開いた子ども達の教師になる。
 自分でやると言ったことだ。その覚悟はできている。だけど。

「せめてあの子たちが、学校に通い続けてくれるようにしたいな、とは思ってるんだけど――私はルチルの代わりにはなれないからなあ」

 不安なのは、私だって同じだ。あんなとびきりの先生の代わりなんて、務まるわけはない。
 これから街を去るという時に、仕事を引き継ぐ相手がこんな弱気だったら、ルチルだって不安になるだろう。だけど今までのルチルの子ども達への向き合い方に対する賞賛も込めて、私はそう口にした。
 ルチルは心配すると思った。気遣わしげに眉を下げて、そんなことないよ、と言ってくれる気がした。
 だけど目の前のルチルは笑っていた。教材のために絵を描くときと同じ、晴れやかな笑顔だった。

「ふふ。サラがそう言ってくれるなら、あの子たちは幸せだね」
「え?」
「だって私と、こんなに自分たちのことを考えてくれるサラっていう、二人の先生がいるんだもの」

 ルチルは手をそっと胸に当てた。その手は繊細な見た目に反して大きくて、力仕事にも慣れた男の人の手だった。冬の終わりに芽吹く葉のような明るい緑の目は、春をここに呼んでしまいそうなほど暖かくて優しい。唇から紡がれる言葉と、同じくらいに。

「サラのクラスの子たちも、先生のことが大好きなの、私にも伝わってるよ。きっとみんなも、サラのことが好きになる。だから、大好きな先生が二人できるあの子たちは、幸せだよ」

 ひとつひとつ、ルチルの言葉で、不安の芽が溶けていく。私の心に花が咲いていく。
 魔法使いは心で魔法を使う。だから大切に言葉を使いたいし、魔法使いにもそうじゃない子にもそうあってほしいのだと、教えてくれたのはルチルだった。きっとそこに魔力はこもっていないのに、私の不安はほどけて、春の陽射しのなかに還っていく。ああ、そうか、と合点がいった。
 どうしてルチルが選ばれたのか。あの子たちから先生を奪うなんて、選ぶ賢者様もひどいことをするものだと、ひっそり思ったこともある。
 だけどきっと、ルチルの言葉が、この世界を救うんだ。

「私もちょくちょく戻ってこられると思うんだ。サラにみんなを取られちゃうのは悔しいし!」

 そう、笑顔で言うルチルに、私も思わず笑ってしまった。そんなことにはならないよという言葉は喉の奥に仕舞い込んだ。
 彼は私を励ましてくれた。笑えるようにしてくれた。
 その言葉に返すなら、卑下でも賞賛でもなく、安心と自信と笑顔だと思ったのだ。


 *


 送別会は大盛り上がりで終わった。子ども達はルチルとの別れを惜しんでいたけれど、新しく私が先生になると知ると多くの子は目を輝かせ、新しくクラスメイトになる元の私のクラスの子たちと、明日からの時間の期待を分かち合っていた。切り替えの早さに、私もルチルも校長先生も笑っていた。子どもというのは私たちが思っているより遥かに柔軟で、変わっていく力がある。
 もちろん、笑っていても寂しさや不安が消えたわけではないだろう。送別会の時に、泣き疲れて眠ってしまった子もいる。私が考えることはたくさんある。だけど。
 お開きになった送別会。眠そうに目をこするミチルと手を繋いだルチルと、手を振り合った。篝火に照らされた背中はどんどん小さくなっていくのに、その頼もしさは変わらないまま、夜の闇を進んでいく。
 私も踵を返し、自分の家に向かうことにした。鞄には彼が教えてくれたことをしたためたノートがある。お風呂に入ったら、これを読み返しながらベッドに入って、朝を迎えるのだ。

 彼は明日、雲の街を出ていく。この世界を守るために。
 私はここにいる。彼がくれた花を、私も一緒に咲かせるために。




オズ ムル ファウスト レノックス オーエン シャイロック ブラッドリー/ネロ スノウ/ホワイト
フィガロ ミスラ ヒースクリフ/シノ ミチル リケ ラスティカ/クロエ カイン アーサー ルチル ***
▲目次へ














 目の回りそうな夜だった。
 二冊の本を抱えて、案内された部屋の扉を閉める。やっと一人になれた。誰もいない小さな部屋は落ち着く――と思ったら、そこには生活感が残っていて、一度、息が詰まりそうになった。
 整頓されてはいるものの、机には舞踏会の仮面にカエルの置物、美しいステンドグラスのランプなど、とりとめのないものが並んでいる。引き出しの一つはいっぱいで、ひまわり色のストールがほんの僅かにはみ出ていた。
 他の引き出しにも、様々なものが詰まっているのだろう。だけどまだ、他人の部屋という感覚が居心地悪くて、自分を縮こまらせるようにしながらベッドに腰かけた。そして、自由に見て良いと言われた本のうち、一冊を手に取る。
 日本語が読めて助かった。そして、直近の書に書かれていたのが日本語で良かった。他にも読めるものがあるかもしれないけど、それはまた後ほど探すことにする。抱えた膝の上で、書を開いた。
 ――そこに書かれていたものは。混乱と困惑に振り回されながらも、魔法使いたちと懸命に向き合おうとする、名前も知らない誰かの痕跡。最初は自分に重ね合わせ、そこからだんだん、物語を読むような気持ちで、夢中になって読み進めた。

 オズが、役目に潰されるなと言って、何度も名前を呼んでくれたこと。
 アーサーが異界から来たことを慮って、どんなときも寄り添ってくれたこと。
 カインがいつでも背中を叩いて励ましてくれたこと。
 リケが迷いながらも世界に触れようとしていたこと。
 スノウが優しく頭を撫でてくれたこと。
 ホワイトが優しく手を繋いでくれたこと。
 ミスラが不慣れながらも懸命に、誰かを守ろうとしていたこと。
 オーエンの残酷な言葉の裏に隠された繊細さ。
 ブラッドリーの、不安な時に力強く背中を押してくれた言葉。
 ファウストが不器用ながらも、ゆっくりと他者に寄り添おうとする優しさ。
 シノの、いつでも守ってやる、という力強い声。
 ヒースクリフが繊細な心で、様々な物事や人に向き合っていたこと。
 ネロが作ってくれる、気遣いと矜持が感じられる美味しい料理。
 シャイロックのあでやかで優しい誘惑。
 ムルがにこにこ笑って、言葉と魔法で何度も手を引いてくれたこと。
 ラスティカが奏でる、自由気ままで美しい音楽。
 クロエの、作り手の愛情と優しさと喜びが詰まった洋服。
 フィガロの手を、人の多い市場で握ったときのこと。
 ルチルが真摯に言葉を大切にする姿。
 レノックスとした、星空の下での約束。
 ミチルが目標に向かって、目を輝かせながら頑張っていたこと。

 彼らの道のりを読み終えるよりも先に、胸元に“賢者の書”を抱きしめた。
 前の賢者様が、どれほど優しく懸命に、彼らと向き合ってきたかを知ったから。

 なら、自分も。この賢者の書を引き継いだ身として。
 人間と似たかたちをしながら、人間とまったく違う。永い時をゆったりと揺蕩い続ける彼らに向き合って、触れあって、寄り添っていきたい。
 ――自分も、彼らの友達に。
 この人がそう願って、そう在り続けたように。




オズ ムル ファウスト レノックス オーエン シャイロック ブラッドリー/ネロ スノウ/ホワイト
フィガロ ミスラ ヒースクリフ/シノ ミチル リケ ラスティカ/クロエ カイン アーサー ルチル ***
▲目次へ

inserted by FC2 system